名取郡
なとりぐん
面積:一四六・五八平方キロ
秋保町
現在の郡域は秋保町一町で、二口峠を越えて山形県へ抜ける秋保街道に沿った東西に細長い地域である。東は仙台市、北は宮城郡宮城町、南は郡境に神室岳(一二五三メートル)を越え柴田郡川崎町、西は面白山(一二六四・四メートル)、南面白山(一二二五・四メートル)、大東岳(一三六五・八メートル)、小東岳(一一三〇・二メートル)などを含む奥羽山脈で山形県山形市・東根市に接する。名取川が神室岳北斜面を水源とし郡のほぼ中央を東に流れる。近世までの名取郡は、現名取市・岩沼市の全域、仙台市の南部と宮城町の一部をも含んだ地域であった。東流する名取川は名取市高館熊野堂付近で丘陵部から平野に出、仙台市日辺付近で広瀬川と合流し名取市閖上で仙台湾に注いでいる。かつては高館熊野堂から南東へ蛇行していたとも、北へ蛇行し仙台市井土浜で海に流入していたともいわれる。旧郡域は奥羽山脈の東側山間部、その東端の高館丘陵東部、南端を東流する阿武隈川および名取川の両河川の形成した広い沖積平野からなっていた。
〔原始・古代〕
高館丘陵先端、阿武隈・名取両河川の沖積平野では、縄文時代の名取市宇賀崎・金剛寺などの貝塚が形成され、海岸線の移動・変遷が明らかになる。またこの地域では名取市の十三塚遺跡で代表されるように早くから稲作技術が伝播し、それらの生産活動による富を蓄積、東北一の名取市雷神山古墳に象徴される地方豪族が成立し支配していたことを示す。現郡域では、名取川によって開析された両岸の狭い河岸段丘沿いに遺跡が分布する。縄文期の遺跡が二三ヵ所と多く、最奥では標高三五〇メートルの馬場滝原のマンゴク山遺跡がある。また長袋上ノ原遺跡出土といわれる皮袋形の縄文中期の異形土器(秋保中学校保管)が有名。古墳時代、奈良・平安期の集落も名取川上流の馬場地区まで営まれ、古代の支配の浸透を示す。
「続日本紀」和銅六年(七一三)一二月二日条に、「新建
陸奥国丹取郡
」とある「丹取郡」を従来は名取郡のこととし、この年が郡創置の年と考えられてきた。しかし現在「丹取郡」と名取郡は別の地名であるとする見解が強くなっている。同書神亀五年(七二八)四月一一日条にみえる「丹取軍団」も名取軍団をさすのではないといえよう。仙台市郡山にある郡山遺跡の発掘調査の結果、この遺跡には七世紀末から八世紀初めの官衙跡とその南方に付属寺院跡がみられ、七世紀末とみられる「名取」と篦書された土器の破片が出土している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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