熊野別当(読み)くまのべっとう

改訂新版 世界大百科事典 「熊野別当」の意味・わかりやすい解説

熊野別当 (くまのべっとう)

紀州熊野三山(本宮新宮那智)を統轄,管理した首長。《熊野別当代々次第(熊野別当補任記)》は812年(弘仁3)就任の第1代別当快慶より1282年(弘安5)就任の第31代別当正湛までの代々を挙げ,《熊野山別当次第》では禅洞から正湛までの次第を記し,両者は初代から7代までの世代の一致をみないが,熊野別当は平安期のかなり早い時代に成立したと思われる。1090年(寛治4)に白河上皇は熊野に御幸あり,先達を務めた園城寺の増誉僧正を熊野三山検校に補し,熊野別当の長快を法橋に叙した。三山検校はその後寺門派の修験僧が任ぜられ,これが三山を統轄する最高の頭職となり,別当もその管下に入ることになったが,長快が法橋に叙せられたことは熊野別当の地位を高め,三山信仰の隆盛に伴って別当は多くの荘園を支配し,その権勢国司領主をもしのぐようになった。第21代別当湛増は軍略にたけ,水軍を操縦し,1180年(治承4)には源氏に応じて平氏にそむき,また長門壇ノ浦の海戦には熊野党が源氏にくみして大いに活躍した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「熊野別当」の意味・わかりやすい解説

熊野別当
くまのべっとう

熊野別当とは、古代後期から中世前期にかけて神仏習合(しんぶつしゅうごう)によって熊野信仰を確立させた、紀伊半島の熊野三山に奉仕する社僧や神官山伏(やまぶし)たちの実務上の最高管掌者をさす。『権記(ごんき)』長保2年(1000)条に、『諸山縁起』所収「本宮別当次第」で初代別当とされた増皇(ぞうこう)の名前が初出する。熊野参詣盛行につれて、以前から熊野三山を組織的に管理する必要性を感じていた白河上皇は、1090年(寛治4)に別当の上に熊野三山検校(けんぎょう)職を新設し、別当長快を法橋(ほっきょう)位に据えることで、三山を中央寺社勢力の秩序に組み込んだ。以後、熊野別当家は牟婁(むろ)郡・日高(ひだか)郡内で在地領主化し、熊野三山や三山領荘園を実質的に支配するようになったが、別当湛増(たんぞう)・行快(ぎょうかい)・範命(はんめい)の時代に全盛期を迎えた。しかし、熊野水軍の一斉蜂起後、地元の新興武士団や外部から定着した新興武士団がおのおの独自の行動をとり始め、別当家の統制に従わなくなったため、1350年(観応1)に登場した別当快宣(かいせん)を最後に、歴史の舞台から消えていった。

[阪本敏行]

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世界大百科事典(旧版)内の熊野別当の言及

【米良氏】より

…熊野那智山の神職社僧として栄えた豪族で,代々那智実報院(実方院)を本拠とした。その祖は藤原実方中将といわれ,その子,僧泰救以来の熊野別当家の一門に属し,法橋範永を氏の祖とする。熊野参詣の道者を宿泊させ祈禱,参拝の導師を務める御師(おし)の職を世襲し,多数の熊野先達を配下において全国に師檀関係を広げ,山内で最も勢力のある院家となった。…

※「熊野別当」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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