日本歴史地名大系 「名西庄」の解説
名西庄
みようざいのしよう
吉野川南岸の現石井町
長元年間(一〇二八―三七)頃と推定される三月一五日の沙弥某書状(九条家本延喜式巻七裏文書)に「名西庄」とみえ、当庄庄官の陳状の取次を沙弥某が京極三位に依頼している。康治二年(一一四三)本領主妙成は預所職が子孫に相伝されることを条件に、内大臣藤原頼長の北政所幸子(徳大寺実能の娘)に名西河北庄を寄進し、翌天養元年(一一四四)に立券され、示が打たれた。その後、幸子が早世したため、仁平四年(一一五四)に父の徳大寺実能が改めて鳥羽法皇に寄進し、本家が皇室、領家が徳大寺家となり、領家職は実能より娘(二条天皇后育子か)に伝えられた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報