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徳大寺実能 とくだいじ さねよし

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

徳大寺実能 とくだいじ-さねよし

1096-1157 平安時代後期の公卿(くぎょう)。
永長元年生まれ。父は藤原公実(きんざね)。母は藤原隆方の娘光子。徳大寺家の始祖。摂関家の藤原頼長(よりなが)を娘婿にするなどして内大臣となるが,保元(ほうげん)の乱では頼長に敵対して後白河天皇方につき,乱後,左大臣にのぼる。従一位。京都衣笠(きぬがさ)に徳大寺をたて,これが家名となる。保元2年9月2日死去。62歳。日記に「実能記」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

徳大寺実能

没年:保元2.9.2(1157.10.6)
生年:永長1(1096)
平安末期の公卿。権大納言藤原公実と但馬守藤原隆方の娘(光子)の子。藤原実能とも。白河・鳥羽・崇徳各天皇の外戚である家柄のうえ,母が堀河・鳥羽両天皇の乳母であったこともあって,9歳で叙爵,少将・中将を経て保安2(1121)年に従三位となり,摂関家の子弟以外では例のない三位中将となるなどの昇進をかさね,翌年権中納言。のち検非違使別当,近衛大将などを経て,従一位左大臣に至る。衣笠山の西南に別荘を構え徳大寺を建てたことから徳大寺左大臣と号した(清華家のひとつである徳大寺家の祖)。また大炊御門高倉に邸宅のあったことから大炊御門左大臣とも称した。長承2(1133)年娘幸子の婿に摂関家の藤原頼長を配したことから,頼長らの推挙を受け近衛大将,さらに内大臣と代々絶えてなかった地位に昇ったが,頼長失脚と同時に離反するという現実的な行動を取った。和歌に巧みで『金葉集』以下の勅撰集に17首入集する。<著作>『実能記』

(渡辺晴美)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の徳大寺実能の言及

【徳大寺家】より

…藤原氏北家閑院流の権大納言公実の男左大臣実能を始祖とする堂上公家。閑院流は歴代の子女が天皇の後宮に入っている。たとえば公成の女茂子は後三条天皇の女御となって白河天皇を生み,実季の女茨(苡)子が堀河天皇の妃となって鳥羽天皇を生み,公実の女璋子は鳥羽天皇の皇后になって,崇徳・後白河両天皇を生んでいる。特に院政を行った白河・鳥羽・後白河3上皇がすべてこの流からでているので,院政期に勢力があり,公実の3子,すなわち実行が三条家を,通季が西園寺家を,実能が徳大寺家を起こし,いずれも摂関家につぐ清華という家格となった。…

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