日本歴史地名大系 「呉我村」の解説 呉我村ぐがーむら 沖縄県:沖縄島北部名護市呉我村[現在地名]名護市呉我(ごが)羽地(はにじ)間切の北西部に位置し、南は我部祖河(がぶしか)村。村名は故地の現今帰仁(なきじん)村呉我山(ごがやま)がグガー(サルナシ)の多い所ということにちなむという(沖縄地名考)。呉我山には移住前の屋敷跡や神アサギ、ビーガー(堤泉)・ハミガー(神泉)が残るという(呉我誌)。現在の集落は旧羽地(はねじ)大川の河口部(現在の奈佐田川河口付近)に位置し、丘陵を背に羽地(はねじ)内海に面して東西に細長く延びる。呉我村の場所は我部祖河村のうちで、海岸一帯は風葬所であった。遺骨を集めて長浜墓(ナガハマシンジュといい、呉我村では屋墓とよぶ)とし、我部祖河の村墓として第二次世界大戦後まで残されていた(呉我誌)。呉我村・振慶名(ぶりきな)村・我部(がぶ)村・松田(まつだ)村などは初め今帰仁(なちじん)間切の所属であった。乾隆元年(一七三六)三司官蔡温らは各地の山林を巡見した結果、これらの村々は山林に集まって住み、農地が狭いうえに焼畑をしていることを理由に、これらの村々を山林の外に移し、山林は今帰仁間切に含めたが、村々は羽地間切の所属とした(「球陽」尚敬王二四年条)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by