桃原村(読み)とーばるむら

日本歴史地名大系 「桃原村」の解説

桃原村
とーばるむら

[現在地名]沖縄市桃原とうばる一―三丁目・桃原・泡瀬あわせ六丁目・宮里みやざと三丁目

宮里なーざとう村・古謝くじやー村の南の沖積低地にある。南の大里うふざとう村とともに大里・桃原と併称される。美里んざとう間切に属する。絵図郷村帳・琉球国高究帳とも村名はみえず、「琉球国由来記」に村名がみえる。集落の西側にはグスク時代から近世にまたがる遺跡があり(桃原前原遺跡)、あるいは集落の発生もグスク時代後半にさかのぼることができよう。


桃原村
とーばるむら

[現在地名]那覇市首里桃原町しゆりとうばるちよう一―二丁目

大中うふちゆん村の北、南風ふえー之平等の北端にあり、真嘉比まかび川を境に北は西にし之平等下儀保しむじーぶ村。首里古地図には東西の通りを軸にして六四の屋敷地、一区画の余地がみえ、田畠はない。南端部中央に記す湧川家に隣接する湧泉は、さしかさ樋川ふいーじやーである。また真嘉比川に架かるハベル橋・三司官さんしかん橋と思われる二つの橋を確認することができ、いずれの橋の道も下儀保村で儀保大じーぶうふ道に合流している。


桃原村
ももはらむら

[現在地名]大豊町桃原

吉野川の西岸、永淵ながぶち村の南西に位置する山村。「土佐州郡志」は「西窪村ノ東南、東西五町南北五十町」と記す。地名は天文二四年(一五五五)五月八日付の中村豊楽寺鐘勧進帳(蠧簡集)に「北地九名」の一としてみえる。天正一六年(一五八八)の豊永地検帳に「桃原名」とみえ、検地面積九町九代一歩、うち田分三町三反一五代三歩、畠分一町九反二二代二歩、屋敷三二と堂床(観音堂)一で三町七反二一代二歩。


桃原村
とーばるむら

[現在地名]西原町桃原とうばる池田いけだ

安室あむる村の西にあり、南は我謝がーじや村、北は幸地こーち村。南に運玉うんたま森があり、北に耕地が広がる。絵図郷村帳に「たうはる村」とみえる。「琉球国由来記」に桃原火神、祭祀場として真境名之殿が記載され、我謝ノロが祭祀を管轄した。「琉球藩雑記」では脇地頭桃原の当村からの作得は一四石余。一八八〇年(明治一三年)の県統計概表では戸数六六・人数三三三。


桃原村
もばらむら

[現在地名]多賀町桃原

せり川を挟んで屏風びようぶ村の南にある。茂原とも記される。「頼継卿記」永正一二年(一五一五)六月一七日条に「犬上郡多賀庄内桃原村無常三昧堂建立事」とある。寛永石高帳に高一六七石余とある。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男一八四・女一八二、寺社方男三・女三。「木間攫」には名産としてさわし柿・牛蒡とある。


桃原村
ももはらむら

[現在地名]上宝村双六すごろく

高原たかはら川と双六すごろく川の合流点に位置し、東は中山なかやま村、北東双六村。元禄飛騨国検地反歩帳によると、高原郷に属し、高九斗余、田四畝余・畑七反余で、ほとんど畑作。「飛騨国中案内」では、中山村より入作し、民家はなく、免二割八分三厘九毛。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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