日本歴史地名大系 「和意谷新田」の解説 和意谷新田わいだにしんでん 岡山県:和気郡吉永町和意谷新田[現在地名]吉永町和意谷現吉永町中部西寄りの標高三〇〇メートル内外の丘陵上にある。東は門出(かどいで)村、南は吉永北方(よしながきたがた)村・葛籠(つづら)村、西は脇谷(わきだに)村に接する江戸時代初期に開発された新田村。開発の起源は岡山藩主池田光政が、一族の墓所として当地を選定し、寛文八年(一六六八)に墓所が完成したことによる。寛永備前国絵図に和意谷村とみえ、元禄郷帳には和意谷新開とみえる。「備前記」には脇谷村の枝村として和意谷新開とある。「備陽記」では御朱印高のほかとして五三石余、田畑四町五反余、家数一〇・人数五八。当村への入植は藩の田畑・山林を預かり下作するという方式がとられ、入植農民は「和意谷御下作人証文」を藩当局へ差出し、下作の取決めに違反しない、不都合があった場合は出身の村へ立帰るなどとなっていた(池田家文庫)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by