和気村(読み)わけむら

日本歴史地名大系 「和気村」の解説

和気村
わけむら

[現在地名]和泉市和気町・繁和はんわ町・今福いまふく

くち村の西から南、槙尾まきお川と松尾まつお川に挟まれて所在。熊野街道(小栗街道)が通る。地名は「新撰姓氏録」(和泉国皇別)にみえる和気公(犬上朝臣同祖、倭建尊之後也)の先祖が当地を本願としたことによるといわれる。地名は「竜華年譜備考」の暦応二年(一三三九)の項に「泉州和気庄」とみえる。

慶長一〇年(一六〇五)の和泉国絵図に村名がみえ、高六七一石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では高四九七石余、幕府領

和気村
わけむら

[現在地名]和気町和気

吉井川左岸に位置し、南は同川と金剛こんごう川の合流点の曾根そね村。西は吉井川を挟み磐梨いわなしはら村。古代山陽道の吉井川渡河地である「和気渡」のあった所で、古代からの交通の要地。江戸時代には片上かたかみ往来が通った。「太平記」巻一四(諸国朝敵蜂起事)によれば、建武二年(一三三五)備前の国人松田盛朝などが足利尊氏の軍と「和気ノ宿」付近で合戦を行っている。

文禄四年(一五九五)に「和気」の内五〇石余が安養あんよう寺領となった(同年一二月吉日「宇喜多秀家黒印状」安養寺文書)

和気村
わけむら

[現在地名]辰口町和気

たち村の西、能美丘陵北西部、鍋谷なべたに川北岸に位置する。かつては鍋谷川に沿う高台の舌状台地上に集落があったが、しだいに北側山裾に移り、下和気・上和気・中和気(出村)の三つの垣内が成立したといい(辰口町史)、文化六年(一八〇九)の能美郡村々垣内書上帳(加越能文庫)によれば、下和気が本村であった。中世、和気保の遺称地。江戸時代を通じて加賀藩領であったが、寛永一六年(一六三九)から万治二年(一六五九)までは富山藩領。正保郷帳では高七五七石余、田方二八町五反余・畑方一六町余。

和気村
わけむら

[現在地名]紀和町和気

楊枝ようじ村の東南、熊野川(新宮川)下流左岸にある。「紀伊続風土記」は「此村より北川上は五里許にして本宮に至り、南川下は四里許にして新宮に至り、西小口川に沿ひて登れは四里余にして那智に至る、三山鼎立して、此村其三辻の分れ口にあり、因りて和計の名あり」と村名の由来を記している。東南下流に小名下和気しもわけがあり、別名立間戸たつまどともよばれる。中世は三之村みつのむら郷の内であったと考えられる。本龍ほんりゆう境内に永享一二年(一四四〇)没の西伊賀守の石塔がある。西伊賀守は当時当村を領していたという(南牟婁郡誌)。慶長六年(一六〇一)検地帳(徳川林政史蔵)に「ミツの村之内和気村」と記される。新宮領で三之村組に属する。

和気村
わきむら

[現在地名]西尾市和気町

市の東に位置、矢作古やはぎふる川左岸の沖積地に開けた集落よりなる。北と東は江原えはら村に、南は大和田おおわだ村に接し、西は矢作古川をもっておもて村・熊子くまこ村と境する。脇村とも記す(米津清右衛門検地高、三河国村々高附)

近世の支配は、寛永年中(一六二四―四四)から板倉内膳正領、天和二年(一六八二)幕府領、宝永二年(一七〇五)相給村となり、一部が旗本岡部氏領、天保二年(一八三一)西尾藩領、他は享保元年(一七一六)旗本筧氏領となって形原かたのはら陣屋(現蒲郡市)の支配を受ける分と、旗本逸見氏領として拾石じつこく陣屋(現蒲郡市)の支配を受ける部分とに分れた三給村でもあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報