喜多又蔵(読み)きたまたぞう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「喜多又蔵」の意味・わかりやすい解説

喜多又蔵
きたまたぞう
(1877―1932)

実業家。奈良県葛城(かつらぎ)村(現御所(ごせ)市)に、長七郎(代々里正を務めた名望家)の三男として生まれる。1894年(明治27)市立大阪商業学校(現大阪市立大学)卒業。同年日本綿花(のちのニチメン、現双日)に入社、1896年から4年間ボンベイ出張員として貿易業務の研鑽(けんさん)を積み、1903年(明治36)支配人就任した。このころ中国市場開拓に意を注ぎ、中国通として知られるようになった。1910年同社取締役、1917年(大正6)には社長に就任。輸出綿糸布同業会や日本綿花同業会の会長も務めた。1918年のパリ講和会議の際には、実業界代表者4人のうちの1人に選ばれ全権随員として渡欧した。繊維企業を中心として、電鉄、セメントその他の企業の役員に名を連ね、日本経営者団体連盟(現日本経済団体連合会)理事にも選ばれた。

[西村はつ]

『大岡破挫魔編『喜多又蔵君伝』(1933・日本綿花株式会社)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「喜多又蔵」の解説

喜多又蔵 きた-またぞう

1877-1932 明治-昭和時代前期の実業家。
明治10年9月11日生まれ。27年日本綿花(現ニチメン)に入社。インドのボンベイ出張員などをへて支配人となり,中国市場を開拓。大正6年社長。7年パリ講和会議随員のひとりとなる。11年日本経済連盟理事。昭和7年1月31日死去。56歳。奈良県出身。大阪商業卒。

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