未耕地を開いて農用地,集落,道路などをつくり,そこに移住して生活を営み農業を行うことをいう。山林や原野を耕地にする開墾および農地造成技術,湖沼や海に堤防をきずいて内部を排水して耕地にする干拓技術が必要であるとともに,入植者が経営を可能にし,地域社会として発展させる農村計画上の諸技術や営農上の諸対策も求められる。以下,まず技術的な問題について述べる。
開拓にとって必要なことは,自然条件が適切で技術的に開墾・干拓に有利であることと農業経営が可能なことである。したがって,技術的水準や経済的状況によって開拓可能地の面積もかわる。自然条件からみた開拓可能地は,傾斜,気温,標高,土壌,用水などの因子を用いて判定する。このようにして判定された開拓可能地の大部分は,従来から農用地化されずに残されたところであるから,条件が悪く,山林原野,山地,丘陵地であり,標高の高いところに位置する。土壌をみると7~8割は火山性の土壌で,リン酸吸収係数が高く,地力が低いところが多い。また石礫(せきれき)を多く含むところも多い。用水については,山地が多いため標高が高く,地下水の採水も困難なところが多い。また風食,水食の被害も受けやすい条件にある。さらに,このようにして選定された開拓可能地は,社会的,経済的条件に合い,国土の総合的利用目的に合致するものでなければ開拓適地とはいえない。すなわち,林業や漁業との調整,土地保全上の配慮,道路の重要性などが適地選定の項目として指摘される。土地改良総合計画補足調査(1969)による開発可能な土地の基準は,(1)自然条件 月平均気温10℃以上が4ヵ月,年平均気温が15℃以上であることなど。傾斜30度以内で土層が農地として支障がないこと。(2)社会条件 農業地帯としての持続性があること,経済的農用地造成地として用地調達の可能性が見込まれること,主産地形成の見通しがあること,機械作業体系の導入が可能と見込まれることなどをあげている。
未墾の原野,山林は,伐木,枝おろし,有価材搬出など,地表の樹木をとりさり,刈払いや除草剤散布,火入れにより,地表の雑物処理を行う。さらに抜根し,これらの根を取り除くとともに石礫も除去する。原野や伐採跡地で有機質に欠ける場合には,これらをすき込んで有機質源として地力の増強をはかる。また牧草を導入したり,放牧によって地力を養う。このようにして開墾された土地は水田,畑,樹園地,牧草地として造成される。これらの工事は,人力,畜力,機械力,火薬などを使用して行われる。
→干拓
執筆者:多田 敦
採集狩猟段階では人類による自然改変の程度が低いので,生活圏の拡大があってもそれを開拓とは呼ばない。開拓の起源は,西南アジアの亜地中海性疎林がつづく山麓での農業の誕生にある。農地はその後ユーフラテス,ナイル,インダス各河川流域の自然堤防付近にひろがり,前3000年ころまでには用水路・井戸・水車などの技術や堤防工事の発達をもとに沖積平野の灌漑農業が進む。降雨の不安定な中国の黄河本支流域でも事情は似ていた。また中央アジアの東西交通路に臨むオアシスにおける開拓にとって,地下水道(フォガラ,カナート)の技術が大きい役割を果たした。しかし乾燥地帯の本格的な農地化は,1936年アメリカのコロラド河谷に完成した多目的のフーバー・ダムによる砂漠の近代的開発についで,50年代中央アジアで行われたソ連の農工開発をまたねばならない。60年にはナイル川のアスワン・ハイ・ダムの着工があり,あいついで各地に〈緑の革命〉が進む。冬雨型気候の地中海地方ではすでに古代ローマ時代に,ケンチュリアのプランによる低地の開拓がひろく行われた。中世にはアラブの灌漑技術が導入されて不毛な原野の農地化が進み,12世紀からはポー川の乱流も制御された。しかし〈レバノンの杉〉など古代の美林が消滅した要因として,地中海貿易に活躍した船舶の用材の濫伐とともに開拓と林間放牧をあげなければならない。
→灌漑
執筆者:水津 一朗
きわめて早くから牧畜と農業の行われたヨーロッパでは,開拓も早くから進行し,ことにローマ帝国の版図では,定住地が濃密に分布した地方も多かった。また新しい技術によって近代になって初めて開発された地方も,周辺部には多い。しかしヨーロッパの中心部で開墾が広く行われ,自然景観が決定的に後景に退いたのは中世であり,ことに,〈大開墾時代〉と呼ばれる11世紀から13世紀までであった。
中世初期の開墾は,王領地や教会領を舞台に,有力領主層の主導下に行われ,ロアール,ライン間地域の先進地帯では,1000ha以上の耕地をもつ所領が出現した。〈大開墾時代〉には,それまでの定住領域での開発が格段に進行したばかりでなく,イベリア半島の再征服やエルベ川東方へのドイツ人の進出(東方植民)など,西ヨーロッパの版図拡大も開拓を促進した。従来からの村域内部での農民による開墾は,個々の規模は小さくても,全体としては開墾面積の大半を占めていた。森林や沼沢地の開発や海岸地方の干拓は,〈新開発村〉を生み出したが,これは資金と企画力の必要な事業として,領主の指導下に行われた。〈新開発村〉は,計画的な立地,規則的な景観,新移住者の身分的自由と軽い負担,一円的領主支配を特徴とするが,エルベ川以東のドイツ人村落はこの典型である。なお森林が優越する地帯でも,シトー会などによる修道院設定や,企業的な富農や市民による農場建設によって,牧畜を中心とする開発が進んだ。中世盛期の開拓によって,ヨーロッパ中心部の耕作可能地がほぼ開墾されたため,定住地間の境界が明確となり,当時地縁団体として確立した村落共同体の領域も確定された。やがて人口が減少に転じた14世紀には,開拓が停止するばかりか,耕地や定住地の一部は再び放棄された。しかし,主要定住地への住民の集中や,豊沃な土地への耕作の集中によって,中世末期には土地利用はより効率化され,農業生産性は向上したといわれている。
執筆者:森本 芳樹
近代ヨーロッパにおける人口増大は,農業技術の改善(農業革命)と耕地面積の拡大をうながし,18~19世紀には再び開拓が盛んになった。西ヨーロッパにおいては放棄地の再開墾や干拓が行われ,東ヨーロッパではドナウ川沿岸や黒海北岸で開拓が進展し,ハンガリー,ルーマニア,ウクライナなどは豊かな穀倉地帯となった。一方,人々は海外へも移住し,カナダ,アメリカ,オーストラリア,南アメリカ諸国においても開拓が行われた。新大陸における開拓の発展は,したがってヨーロッパのフロンティアの拡大と見ることもできる。工業化しつつあるヨーロッパでの,食料および原料への需要増加と交通機関の発達が,開拓地域を海外へまで広げたのである。ヨーロッパは移住者のみならず資本をも供給し,かつ市場を提供した。
アメリカの開拓は西漸運動として知られるが,新大陸における開拓の一つの典型であった。すでに17世紀以来,イギリスを中心とするヨーロッパ諸国からの移民が到着し,北東部ニューイングランドではタウンシップ,南部ではプランテーションという形態で,開拓が行われた。18世紀末に,主たる地理的障害であったアパラチア山脈を越えるまでは,開拓の歩みは遅々としていたが,19世紀に入ると速度を速め,1890年にはフロンティア・ラインの消滅によって開拓期の終了がもたらされた。19世紀における開拓進展の速さは,(1)イギリス産業革命による綿花および小麦に対する需要の増加,(2)ヨーロッパからの移民および資本の到来,(3)大西洋航路の発達およびアメリカ国内における運河,鉄道の建設によるところが多いが,(4)開拓民が土地を取得しやすい公有地政策も忘れてはならない。開拓の主体は開拓農民であったが,連邦および州政府が開拓促進をさまざまな方法で援助したことも重要である。また,ミシシッピ川以東の森林地帯に比べ,西部の草原地帯では開墾の手間がかからず,農業機械も大型化したことも開拓の速度を速めた。アメリカの開拓は,単に農地を拡大し,農業生産を増大させたのみならず,開拓者精神を生み出した。歴史家F.J.ターナーは,西部開拓がアメリカの個人主義,経済的平等,立身出世の自由,民主主義を促進したと指摘している。このようなアメリカ開拓の精神と技術は,日本の北海道開拓にあたり,H.ケプロンやW.S.クラークによって伝えられたのである。
執筆者:岡田 泰男
日本における耕地の歴史については〈田〉〈畑〉の項目を参照されたい。〈開拓〉という言葉は幕末まであまり使われず,〈開墾〉とか,ことに平安時代以降では〈開発(かいほつ)〉ということが多い。新たに開墾された土地は墾田,新田,新開(しんがい)などと呼ばれた。江戸時代には干拓を含む新田開発が盛んに行われた。なお,律令国家による条里制の施行は開拓の終了を意味せず,耕地の安定には近代に至る長い歴史を要した。
執筆者:編集部 明治以後の日本では,1874年からアメリカのタウンシップのプランを模範として北海道の開拓が進む(北海道開拓)。また明治初年には士族授産を目的とした千葉県小金原,福島県対面原などの開拓があり,それ以後も国家の直営事業や自作農耕地開発事業などの形で自然条件の劣悪な山間部の開墾が行われたが,すべてが成功したわけではない。1937年を境に軍用地の増大,農業労働力の減少などによって農地は減少する。しかし第2次世界大戦後,食糧対策と海外からの引揚者や離職者の帰農を目的として,鳥取県大山の原野をはじめ火山麓の緩斜面などに開拓事業が再開し,また八郎潟,霞ヶ浦,印旛沼,琵琶湖などの干拓も進む。50年代以降国土総合開発事業の進展とあいまって用水などの困難な営農上の問題が解決したところも少なくない。近年では,北海道の石狩川下流,篠津原野などの泥炭地,根釧(こんせん)原野,青森県上北地区などの開発等が注目されている。しかし高度経済成長を経て開拓農地の住宅や工場への転用が増加し,営農に安定できない開拓者の離農も多く,開拓事業は深刻な事態を迎えている。
執筆者:水津 一朗
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
生産地や定住生活圏の拡大、増強のために、未開、あるいはそれに準ずる荒れ地、山野を切り開くこと。このような土地の占有化、領土化は、遊牧民族や狩猟民族でない、農耕、牧畜民族にとっては必要欠くべからざるものであるから、やや狭義には農牧地を目的として未開の土地を切り開く開墾と同義に解されることもある。しかし鉱工業資源、山林木材などの獲得から行われる、未開の土地への生産のための定住生活圏拡大も開拓である。
開拓は人類の発生とともに始まったといっていいが、前述のやや狭義の意味からすれば、人類に耕作、栽培農業が始まり、土地の占有化、領土化の必要がおこった無犂(むり)農耕期に源を求められるだろう。人類の発展とともに人口は増大し、生産物獲得のための土地は不足し、しかも一方では生産消費物は多様化し、それに伴う流通機構も発達するなど、さまざまの要素から、開拓は一領国、国家、民族、組織団体、資本などの支持を必要とするようになった。15世紀末のコロンブスの新大陸発見を契機に、大西洋を越えた大陸までに広がる、規模の大きい、積極的な開拓が始まった。とくに北アメリカ大陸で開始された、ヨーロッパ移民による東部から西部に向かっての開拓地境界(フロンティア)を前進させる、アメリカ史上での西部開拓時代は有名で、これはアメリカ民主主義の精神を強く彩るフロンティア・スピリットとなった。しかし開拓地には先住民族が生活圏をもち、これが一定の文化や力をもつときには、開拓者との軋轢(あつれき)もおこり、北アメリカでのインディアンとの争い、15世紀末から始まる、開拓者側の武力的侵略をあらわにした、南アメリカ各地へのヨーロッパ人の植民開拓などの例もある。オーストラリア大陸は、先住民族が少数であったために、そのような軋轢もなく、初めは流刑植民地として出発したが、1793年には自由移民が上陸し、主として牧畜地としての開拓が展開された。自国の内陸にウラル、シベリア地区などの広大な未開発地をもつロシアでは、社会主義国家成立後、国家的な大規模な開拓事業が実行され、鉱工業資源地の開拓、それに伴う住民の生活を支える農地開拓などが、計画的に進められた。また人口稠密(ちゅうみつ)で国土が狭く、よく日本に比較されるオランダでは、干拓、埋立てによって、海を陸地化する開拓が積極的に行われてきた。
開拓の人的資源として、19世紀末ごろからブラジルを主とするラテンアメリカ諸国は、人口過剰の国から開拓者としての移民を迎える方法をとったり、欧米の資本主義国家は、熱帯・亜熱帯地方で大規模農場の開拓を低賃金の現地労働者に行わせる、プランテーション(植民地農業)の方法をとったりした。ブラジル開拓移民は日本人も非常に多く、その数は第二次世界大戦前に比べて少ないが、いまもなお続いている。しかしプランテーションも世界的な民族独立機運とともに激減しつつある。
日本における開拓は、地勢の険しい、狭い島国という地理的条件、海外に開拓地を求められない鎖国という政治的条件から、開墾的要素が強いものがある。古くは『日本書紀』応神(おうじん)天皇の40年(5世紀ごろ)に、山林原野が開墾させられたという記録がある。以後、開墾の記録はかなりあるが、河川、湖沼、湿地帯の多い地勢、水田農業などの特質から、灌漑(かんがい)、水防、干拓、埋立てなどを伴う独特の開拓事業が行われてきた。広い意味での本格的な開拓が行われ始めたのは、未開の地、蝦夷(えぞ)地(北海道)の開発を明治新政府が国家的事業として着手した、北海道開拓計画からである。また昭和初期に起こった農業恐慌による人口過剰の救済策として、開拓地を外地に求める満蒙(まんもう)開拓が1933年(昭和8)に開始されたが、先住民の抵抗などもあって、開拓に伴う侵略的傾向から、武装移民となり、37年の日中戦争の発生後に結成された満州開拓義勇隊、満蒙開拓青少年義勇軍に至って、ますますその色を濃くした。第二次世界大戦後、政府は食糧の確保、失業対策から、45年(昭和20)「緊急開拓事業実施要領」を施行し、残余の未耕地の開墾、干拓などに力を入れた。しかし、農業技術の進歩による反当り収穫率の増加、日本人の食糧嗜好(しこう)の変化、輸入農産物の増加、工業生産国への転換などの要素が原因となって、離農者が多くなり、現在では開拓という意味を根本的に見直さねばならない時期にきている。第二次、第三次産業における、本義を離れた比喩(ひゆ)的あるいは抽象的意味あいでの開拓ということばが多用されるようになっている。
[梶 龍雄]
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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