日本大百科全書(ニッポニカ) 「製糸業」の意味・わかりやすい解説
製糸業
せいしぎょう
繭から糸を繰り取り、生糸を生産する産業で、器械製糸、座繰(ざぐり)製糸、玉糸(たまいと)製造の三つの経営形態がある。
器械製糸業は、明治中期以降多くは工場制工業を営み、上繭(じょうけん)を用いて比較的品質のよい均整のとれた糸を生産した。座繰製糸業は、その一部の近代化したものを国用(こくよう)製糸とよぶが、多くは家内制手工業で、機械よりも女子労働者の熟練に依存している。玉糸製造業は、原料繭が玉繭であり、節のある玉糸を生産し、大部分が中小企業である。
器械製糸業によって生産される生糸は、おもに輸出用、輸出向け絹織物用、国内向け高級絹織物用とされ、座繰生糸は国内向け中級以下の絹織物に使用されて輸出はされない。器械製糸、座繰製糸の両業種は、製糸業法(1932年9月公布、1947年改正、1998年4月廃止)による免許を必要とし、玉糸製造業は、蚕糸業法(1911年3月公布、1945年および1954年改正、1998年4月廃止)による許可が必要であった。昭和初年以来の多条繰糸機にかわって、1960年(昭和35)ごろから器械製糸業に自動繰糸機が導入されたため、低賃金の熟練労働に依存していた座繰製糸業は器械製糸業との競争によって後退を余儀なくされたが、一部には小形自動繰糸機を導入して国用製糸として残ったものもある。
[加藤幸三郎]
歴史
明治初期
そもそも在来製糸業が養蚕業や織物業から分離・独立したのは、幕末期とくに1859年(安政6)の横浜開港によって製糸業が世界市場に直結し、生糸が日本の主要な輸出商品になったためであり、以後日本資本主義の展開・発達にとって先駆的な役割を果たした。技術史的には在来型の製糸業が人力または水車に頼りつつ展開を示してゆくが、これに対し、明治政府の殖産興業政策による洋式製糸法の移植が図られた。まず1870年(明治3)2月に前橋藩速水堅曹(はやみけんそう)の企画で同年6月群馬県前橋に前橋製糸場が創始された。イタリア式6人繰ケンネル木製器械で初めは人力に頼ったが、9月には南勢多(みなみせた)郡岩神村へ移転、翌1871年には原動力を水車に改めている。また工部省設立以前の同じ1870年2月に伊藤博文(ひろぶみ)、渋沢栄一の企画で官営模範工場として富岡製糸場が準備され、1872年10月から創業した。その規模はフランス式共撚(ともより)300釜(かま)(300人繰)であった。同じ1870年11月には、小野組の番頭であった古河市兵衛(ふるかわいちべえ)の企画で東京・築地(つきじ)に小野組製糸場が創立されることとなり、翌1871年8月からイタリア式ケンネル木製器械30台(60人繰)の規模で創業を開始した。さらに遅れて工部省の企画で東京・赤坂溜池(ためいけ)に勧工寮製糸場が創立され、1873年1月から創業開始、規模はイタリア式ケンネル24釜(48人繰)で水車を動力とした。これらの洋式製糸法の移植は、最初横浜の外商たちから提起され、これを日本側の政府、藩、豪商たちが受け入れたのであって、いわば在来製糸業の動向とは無関係であった。それゆえ、原料繭、労働力の調達、あるいは採算規模など経営的には不安定であった。結局、廃藩置県もあって、しだいに設立者の手を離れて、他の経営に移譲されざるをえなかった。
しかし、これらの製糸場は、多くの女工の伝習、器械設備の模造などを通じて、各地の製糸業に刺激を与えたことは事実といえよう。ともあれ、生糸の輸出増大に伴って、糸質の斉一化や大量出荷が要望されるにつれて、福島・群馬両県に代表される古蚕国(こさんこく)地方では、改良座繰の発展および共同揚返(あげかえし)所の建設などが指向されたのに対して、新蚕国(しんさんこく)地方の代表ともいうべき長野県諏訪(すわ)製糸業では、早くから洋式器械の輸入が行われた。たとえば、1872年には小野組製糸場の流れをくむ深山田(みやまだ)社、1874年には富岡製糸場の流れをくむ松代の六工社が創立されているが、1875年ごろからは、日本独自の製糸法をこれまでの座繰的技術と折衷・調和させた「諏訪式製糸器械」の発明で、安上がりな製糸法がしだいに広まっていった。もちろん、女工の「手」工的熟練はきわめて重要であったから、生産形態としてはマニュファクチュアの領域にとどまらざるをえなかったといえる。こうして諏訪製糸業は急速に他府県の製糸業を凌駕(りょうが)し、決定的な優位を示すに至るのである。
[加藤幸三郎]
明治後期以降の発展
諏訪製糸業を中心とした長野県器械製糸業を先頭に、日本の器械製糸業は、1894年(明治27)には生産量のうえで座繰製糸を凌駕するに至った。この発展は、明治30年代を通じていっそう推進され、日露戦争後から大正初期にかけては全国的な規模で展開されてゆくのである。その結果、1909年(明治42)には、輸出高のうえで当時最大であった中国をも抜いて世界第一の生糸輸出国となった。この間、器械製糸業自体においても、生産過程の技術的改善(製糸器械の改良と繰糸法の改善、動力機の水力から蒸気力への交替など)が行われ、他方、原料繭の集荷ならびに工女募集の制約を克服するために器械製糸業の全国的な工場進出が始まってゆく。つまり、「機械」化への展望と小規模座繰製糸の淘汰(とうた)を通じて製糸資本の「独占」化が進んだともいえよう。さらに、第一次世界大戦期を通じて、生産の集積や資本の集中を遂げ、株式会社形態が一般化してゆく。このような器械製糸業の発展を主導した大規模製糸経営としては、片倉を先頭とする諏訪六大製糸(片倉組、山十(やまじゅう)組、尾沢組、岡谷(おかや)組、小口(おぐち)組、林組)と京都府何鹿(いかるが)郡綾部(あやべ)地方に成立した郡是(ぐんぜ)製糸が代表であろう。1920年(大正9)に片倉絹糸紡績(株)となった片倉組は、1877年(明治10)の垣外(かいと)製糸場に創始が求められるが、深沢社、開明社などの共同出荷団体を組織して発展を図り、「普通糸」格の生産に特色がある。郡是は日清(にっしん)戦争後の1896年8月、168釜の規模で、波多野鶴吉(つるきち)を中心に組織された。しかも何鹿郡蚕糸業組合を母胎とし、蚕桑改良を通じて、郡下の零細な養蚕家を株主層として出発し、「エキストラ」格の良質生糸の生産に努力を注いだ点に特色があった。
[加藤幸三郎]
昭和期
おもにアメリカ市場に大きく依存しつつ発展してきた製糸業は、世界恐慌による打撃と人絹糸の進出で、昭和期に入って転換を余儀なくされ、操業短縮や合理化、そして品質向上を迫られてゆく。そうしたなかで1927年(昭和2)の片倉における「多条繰糸機」の導入を端緒として機械化が始められた。とはいえ、日中戦争開始以後は、アメリカ市場の完全な喪失、さらに桑畑の食料生産への切り替え、設備の軍需関係部門への供出、等々の事情が重なって、その規模を急激に縮小していった。第二次世界大戦後は、靴下原料の分野では完全にナイロンに市場を奪われており、合化繊工業の展開のなかで、戦前水準に復帰することは明らかに困難であり、日本の製糸業としては、その歴史的使命を終えたものと考えられよう。
[加藤幸三郎]
『石井寛治著『日本蚕糸業史分析』(1972・東京大学出版会)』▽『瀧沢秀樹著『日本資本主義と蚕糸業』(1978・未来社)』