…染織では,明や琉球との交易がもたらした金襴(きんらん),緞子(どんす),繻珍(しゆちん)など高度な織物の技術に刺激されて,堺や京都で独自に華麗で斬新な意匠がつくり出されたが,それは,室町時代末である。狩野永徳が1566年(永禄9)大徳寺聚光院の襖に描いた水墨《四季花鳥図》は,戦国大名三好氏のために描かれたものだが,若年の筆とも思えない大胆な筆使いと力動感みなぎる構図には,新しい時代の到来を思わせる爽快な響きがこもっている。 76年(天正4)から79年にかけ信長が築いた安土城の天主は,外部五重,内部7階のこれまでにない斬新な意匠と構造によるものであり,桃山美術の性格を決定づける上で,画期的意義を持つものだったと思われる。…
…この活躍によって狩野派が桃山画壇の中心に座ることになった。数多く制作された障壁画のほとんどが失われ,確証ある作品の少ない永徳画の中で,聚光院の《四季花鳥図襖》と上杉家の《洛中洛外図屛風》とが特筆される。《四季花鳥図》は襖16面にわたって梅と松の巨木を中心とした花鳥を描いたもので,画面の枠を突き破るようなその大きさや力強さは,《本朝画史》(1693)に述べられている〈松梅は長さ一,二十丈,あるいは人物は高さ三,四尺〉という永徳の大画の画風そのままである。…
…画壇における狩野派の地位は,元信の孫の永徳によってさらに高められた。彼がわずか24歳で父松栄とともにあたった大徳寺聚光院障壁画では,室中の《四季花鳥図》で力感あふれる巨木を画面いっぱいに描いて桃山絵画の幕を開いた。この〈大画〉表現は,織田信長に認められ,1576年(天正4)からの安土城建設に天下一の画家として採用され,その多くの障壁画を子の光信とともに描いた。…
※「四季花鳥図」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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