日本歴史地名大系 「四竈村」の解説 四竈村しかまむら 宮城県:加美郡色麻町四竈村[現在地名]色麻町四釜(しかま)加美郡南東部、鳴瀬(なるせ)川の南岸平地と丘陵台地一帯を占め、花(はな)川下流両岸にまたがる。南は一関(いちのせき)村を取囲んで大(おお)村に、東の鳴瀬川対岸は志田郡斎田(さいだ)村(現三本木町)と中新田(なかにいだ)村(現中新田町)に接し、中央を南北に中山(なかやま)越出羽道が通り、街村を形成する。古くから人々の生活の場で、古墳時代中期になると生活の痕跡はより顕著となる。念南寺(ねやじ)古墳・御山(おやま)古墳があり、後期の色麻古墳群もみられる。東原囲(ひがしはらかこい)を中心に奈良時代の瓦窯跡である日の出山(ひのでやま)窯跡群が、道命(どうめい)地区に奈良・平安時代の上新田(かみしんでん)遺跡がある。また条里制を想起させる五反田・八反田の地名も残る。村名は色麻村の誤記、もしくは書換えといわれ、古代の色麻柵・色麻郡・色麻駅、中世の「しかまの保」などの遺称地。古代の色麻郡は現色麻町域よりも広かったと思われる。「続日本紀」天平九年(七三七)四月一四日条によれば、鎮守将軍大野東人は、多賀柵から出羽柵(現秋田市)への連絡路を開くため、二月二五日多賀城を発し、三月一日六千人近い将兵を率いて色麻柵を出発、その日のうちに出羽国大室(おおむろ)駅(現山形県尾花沢市か)に着いている。同日条には賀美郡(加美郡)の名があるので、色麻郡も当時には成立していたと思われる。色麻町一の関(いちのせき)遺跡を色麻柵に擬定する説もあるが、中新田町の城生(じよう)柵跡とする説もある。「続日本紀」延暦八年(七八九)八月三〇日条によれば、色麻郡などの「一十箇郡」は賊と居を接しているため、田租免除期間の延長が認められている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by