中新田村(読み)なかしんでんむら

日本歴史地名大系 「中新田村」の解説

中新田村
なかしんでんむら

[現在地名]原村中新田

阿弥陀あみだ岳の西方にあり、東と南は立沢たつざわ村・御射山神戸みさやまごうど(現富士見町)、南西は金沢かなざわ村(現茅野ちの市)と境する。東部は広い原野で、約一三〇〇メートル前後の等高線沿いに信玄のうえ棒道ぼうみち(現県道八ヶ岳高原下久保線)が通じる。西部の一一〇〇メートル前後に集落が開け、大門だいもん(善光寺道)が通じている。また北部を阿久あきゆう川が西流し、一ノ瀬堰せせぎがある。

当地籍には縄文時代中期の遺跡として中新田裏尾根うらおね遺跡がある。古代から中世を通じて諏訪大社上社の御射山御狩みさやまみかり神事に関連する神聖な地域とされ、闢庵あきほ(秋尾)御狩神事に際して「諏方大明神画詞」に「大祝以下ノ大小神官深山ニノホリテ三ケ日逗留ス」とあり、この「深山みやま」は中新田地籍をさしている。開発は高島藩初代藩主諏訪頼水の計画に基づくといわれ、他の新田村よりも優遇された。慶長一五年(一六一〇)の中新田開発免許状(中新田共有)には、

<資料は省略されています>

とあり、また同年の中新田開発定書(中新田共有)には、

<資料は省略されています>

とある。

中新田村
なかにいだむら

[現在地名]中新田町 並柳なみやなぎ城内じようない南町みなみまち十日市とおかいち岡町おかまち西町にしまち新丁しんちよう田川たがわ北町きたまちなど

大崎おおさき平野の北西端の交通の要衝で、各地への道が四通八達し、西を鳴瀬なるせ川が南東流する。南の鳴瀬川対岸は四竈しかま(現色麻町)で、東は四日市場よつかいちば村、北は城生じよう村に接し、西の対岸は高城たかき(現色麻町)である。永仁四年(一二九六)三月一一日の足利貞氏袖判下文案(倉持文書)によれば、「賀美郡内穀積郷、沼袋郷半分、中新田郷内屋敷田畠」などが、正応五年(一二九二)の亡父左衛門入道浄円の譲状によって倉持家行に安堵されている。乾元二年(一三〇三)閏四月一二日の足利貞氏袖判下文案(同文書)では、「沼袋上郷、中新田郷内屋敷田畠」が、倉持左衛門次郎師経に与えられており、穀積こくづみ(現宮崎町米泉)は弟の倉持左衛門三郎師忠に与えられた(同日付「足利貞氏袖判下文」同文書)。加美郡地頭が足利氏で、倉持氏が地頭代であったことを示している。観応三年(一三五二)一一月四日、吉良貞家は石河蒲田左近蔵人大夫・伊達内谷民部少輔両名に対し、「甘美郡内青塚郷、中新田郷、大池郷等」の押領人を退け、先の下文の旨に任せて今河入道の代官に沙汰すべきことを命じている(「吉良貞家施行状」秋田藩家蔵文書)

中新田村
なかしんでんむら

[現在地名]焼津市中新田

中根なかね村・中根新田の西に位置し、東流する黒石くろいし川と木屋きや川に挟まれる。志太しだ郡に属する。当村の芝切は桂島かつらしま(現岡部町)から移住してきた是永家で、文禄元年(一五九二)曹洞宗竜泉りゆうせん寺を創建したと伝える。「志太郡誌」などは寛永一二年(一六三五)から田中藩領となったとするが、同一九年の田中領郷村高帳や寛文四年(一六六四)の西尾忠成領知目録(寛文朱印留)に当村の名はない。

中新田村
なかしんでんむら

[現在地名]海老名市中新田

相模川の東にあり、東は上大谷かみおおや村・下大谷村、南東は今里いまさと村、南は社家しやけ村、北は河原口かわらぐち村に接している。西は相模川を隔てて愛甲あいこう郡厚木村(現厚木市)。村の中央を南北に八王子道が貫く。中世は海老名郷五ヵ村の一つ。天正一八年(一五九〇)旗本高木領となり、元和九年(一六二三)一時幕府直轄領となるが、寛永一七年(一六四〇)以降旗本秋元領となる。

文化一四年(一八一七)一一月の地頭秋元氏申渡七箇条(県史八)では潰百姓の取立て・田畑の開発を奨励している。

中新田村
なかしんでんむら

[現在地名]浅羽町中新田

城東きとう郡のうち。同笠どうり新田村の東側に位置し、南は海に面する。横須賀よこすか城下石津いしづ(現大須賀町)の南西にあるが、その間は沼田となっているため迂回して村に入るという。また東に向かってまえ川が流れ、その中島に村があるので中新田という(郷里雑記)正保郷帳に村名がみえ、田方一九三石余・畑方七七石余、横須賀藩領。領主の変遷は梅田うめだ村に同じ。延享三年(一七四六)の村況覚書(岡本家文書)によると高二七〇石余、家数三八・人数二五一。天保郷帳の高四五五石余、旧高旧領取調帳では高四八七石余。「遠淡海地志」の家数五〇。安政三年(一八五六)江之端えのはた悪水吐圦樋伏替えをめぐる相論に下手三〇ヵ村の一村として参加している。

中新田村
なかしんでんむら

[現在地名]鶴ヶ島市中新田・高倉たかくら

上新田村の北東にあり、西は入間いるま森戸もりど(現坂戸市)高麗こま松山まつやま領に属した(風土記稿)。高倉村内を開発して成立した新田で、延宝九年(一六八一)の高麗郡河越領高倉中新田検地帳(高篠家文書)がある。高倉中新田とも称された(元禄七年柳沢保明領知目録)。延宝九年の検地帳によると畑三二町七反余・屋敷一町余。名請人一六名、うち一三名が村内居住者で、一二名が屋敷持。川越藩領で、元禄元年(一六八八)の年貢割付状(高篠家文書)では高一二八石余。同七年の年貢割付状(同文書)では高一一二石余、ほかに野高一六石余、反別は畑三三町一反余・林一七町二反余。

中新田村
なかしんでんむら

[現在地名]十日町市下条げじよう

下条上組げじようかみぐみ村の西、信濃川寄りに位置する。「新編会津風土記」には慶安年中(一六四八―五二)の開発と伝え、枝村としてはやしはら桑原くわばら野田のだ細越ほそごし北林きたばやしがみえる。天和三年郷帳では川口組に属し、高三七五石七斗余。宝暦五年(一七五五)村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では家数六九、男一六九・女一三三。文化年間(一八〇四―一八)の家数は中新田六・林一六・原二六・桑原一七・野田九・細越一一・北林七で、小千谷組に属する(新編会津風土記)

中新田村
なかしんでんむら

[現在地名]小田原市中新田

南に酒匂さかわ川が流れ、北は上新田かみしんでん村・飯泉いいずみ村、東は酒匂村に接し、酒匂川を隔てて今井いまい村・井細田いさいだ村に対する。天正二〇年(一五九二)一一月二〇日の西光院松原大明神社領書上(相州古文書)に「弐拾貫文 此米弐拾八石八斗 今井新田」とある。「風土記稿」はこの今井新田を当村のこととして、もと今井村の地内に開かれた新田とする。

中新田村
なかしんでんむら

[現在地名]下妻市中郷なかごう

小貝こかい川右岸にあり、西は数須かずす村。元禄一一年(一六九八)の常陸国西河内郡上・中・下新田書上(「村明細帳の研究」所収)によれば、寛永一六年(一六三九)に天領であった数須村のうちを太郎兵衛という者が開発して太郎兵衛たろべえ新田と称した。その後古河藩領となり、万治二年(一六五九)地詰が行われ、反別五〇町六反一四歩となり、その際に中新田と改めた。

中新田村
なかしんでんむら

[現在地名]浜松市河輪町かわわちよう東町ひがしまち長田町ながたちよう

長十郎ちようじゆうろう新田村の東、天竜川右岸に位置する新田村。東は芋瀬いもせ村、北は東村。元禄郷帳に村名がみえ、高二六石余。国立史料館本元禄郷帳、享保郷村高帳、旧高旧領取調帳では幕府領。

中新田村
なかしんでんむら

[現在地名]新津市中新田

阿賀野川左岸に位置し、南は大安寺だいあんじ村、北は満願寺まんがんじ村。寛永一〇年(一六三三)新津村の名主井浦津左衛門の弟佐太郎ら四人が満願寺村の荒地を開発し、当時は四ッ興野よつごやと称したと伝える(皇国地誌)正保国絵図には中新田とあり、新発田藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android