日本大百科全書(ニッポニカ) 「国後・目梨の戦い」の意味・わかりやすい解説
国後・目梨の戦い
くなしりめなしのたたかい
1789年(寛政1)5月、国後島と目梨(北海道根室振興局管内)のアイヌが、この地域の和人を襲い70人余を殺害した事件。この地域の支配権にもかかわる事件であり、ロシア人がアイヌを動かしているという風説もあり緊張をよんだ。場所請負人飛騨屋久兵衛(ひだやきゅうべえ)の権利のもとに置かれたこの地域では、過酷なアイヌ使役が行われていた。毒殺などの脅迫で魚肥製造に駆り立て、越冬食糧の準備の暇も与えないほどに使役し、報酬もきわめて少なく、アイヌの生活は飢餓に瀕(ひん)していた。アイヌ女性に対する乱暴な行為も目だち、不満が高まるうちに、アイヌが運上屋の酒食により毒殺されたとの風説が広まり、大きな蜂起(ほうき)となった。松前藩の兵力の前にアイヌ側は恭順の態度で臨んだが、37人死刑という過酷な処分が行われた。以後、この地域における和人側の支配体制が確立していった。
[田端 宏]
『新井田孫三郎著「寛政蝦夷乱取調日記」(『日本庶民生活史料集成 第4巻』所収・1969・三一書房)』