国策研究会(読み)こくさくけんきゅうかい

改訂新版 世界大百科事典 「国策研究会」の意味・わかりやすい解説

国策研究会 (こくさくけんきゅうかい)

昭和研究会とならぶ民間の国策研究機関。中心人物は矢次一夫。1933年陸軍省から国策立案を依頼されたのを機に,総合的な政策研究組織の必要を感じた矢次が大蔵公望などとはかって34年国策研究会を設立。当初は会員も少なく,私的研究会にすぎなかったが,二・二六事件で矢次が逮捕されたのを機に会の改組再編をはかってのちは,2000名に及ぶ会員と潤沢な活動資金(陸海軍財閥から資金援助)とをもつ本格的な調査・研究・立案組織へと成長し,電力国家管理法案をはじめとする戦時重要政策の立案に大きな影響力を及ぼした。会員は吉野信次滝正雄など官僚,財界人,政党人,学者が多く,中堅層から閣僚級に至る当時のトップ・エリートを多数含んでいた。官僚会員の多くはいわゆる革新官僚であり,かつ矢次が陸軍統制派政治将校と密接な関係にあったことから,軍部・革新官僚の横断的結合組織であったとみられる。太平洋戦争末期に一度解散したが,53年矢次により再建されている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の国策研究会の言及

【矢次一夫】より

…1921年(大正10)協調会に入り,25年労働事情調査所を創立して〈《労働週報》〉を発刊,野田醬油争議共同印刷争議日本楽器争議などの大争議の調停にあたる。しだいに無産運動家から軍人に至る幅広い人脈をつかみ,33年(昭和8)には,統制派の幕僚池田純久少佐と結んで国策の立案に着手,官僚,学者,社会運動家,政治家などを集めて国策研究会をつくり,37年には改組して組織の拡大を図った。第2次大戦後公職追放されたが,講和後53年に国策研究会を再建,56年実業家・評論家などを組織して台湾を訪問,翌57年には日華協力委員会を設立して常任委員となり,58年には岸信介首相の個人特使として李承晩韓国大統領と会談,日韓国交正常化後の69年には日韓協力委員会をも設立するなど,台湾・韓国との交流に尽力した。…

※「国策研究会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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