広義には,家産を基礎とし,同族支配に特徴づけられた企業集団を指すことばで,ロックフェラー財閥,クルップ,ターター財閥,モルガン財閥,クーン=ローブ財閥,ロスチャイルド財閥(ロスチャイルド家),浙江財閥などと使われるが,狭義には,第2次世界大戦前の日本におけるファミリー・コンツェルンfamily Konzernを指す用語である。大は三井財閥,三菱財閥,住友財閥の三大総合財閥から,安田財閥,川崎財閥などの金融財閥,浅野財閥,大倉財閥,古河財閥などの産業財閥,小は数十に及ぶ地方財閥が存在したが,家族ないし同族の出資による持株会社を統轄機関として頂点にもち,それが子会社,孫会社をピラミッド型に持株支配するコンツェルンを形成していた点に共通点がある。第1次世界大戦後とくに1930年代に登場した日産コンツェルン,日窒コンツェルン,日曹コンツェルン,理研コンツェルンなどは,家産に基づく同族支配の性格は薄かったが,コンツェルン形態をとっていたことから新興財閥と呼ばれた。経済史学ないしマルクス経済学の学術用語としては,戦前期日本帝国主義時代の支配的資本,つまり金融資本(独占資本)の特殊日本的形態を指す用語として定着している。
新興財閥を除き,大財閥の多くはその起源を江戸時代ないし幕末,明治維新期にもち,当初は商人あるいは金貸資本として登場した。三井の起源は元和年間(1615-24)越後守三井高安の子,高俊が松坂で質屋兼酒屋を開いたのに始まり,江戸時代中は幕府御用の両替店と越後屋呉服店を営み,大をなした。住友も16世紀末にオランダ人から銀銅吹分の技術を学んで銅商として出発し,江戸時代には両替商として幕府御用を務めた。幕末維新期の動乱は,多くの幕府御用商人の没落をもたらしたが,三井は官軍・新政府の官金御用を務めて三井銀行,三井物産を興し,住友は別子銅山の銅精錬で乗りきった。他方,幕末,維新期の動乱は新興商人の急成長をもたらした。土佐の郷士岩崎弥太郎が海運業を興して明治政府の御用を務め(三菱の発祥),一介の小商人安田善次郎が官金御用で大をなしたのは,その典型である。新政府の御用を務めて大をなした三井・三菱・安田などは政商と呼ばれ,大倉や川崎も規模は小さいが,その類に属する。明治政府による官業払下げによって,三井は三池炭鉱(三井鉱山の基)その他,三菱は高島炭鉱,長崎造船所等を入手し,生産部門に進出した。浅野は深川セメント製造所,古河は足尾銅山を入手して財閥の基を築いた。明治中期から大正初期にかけて,彼らに対する呼称は〈政商〉から〈富豪〉に変わった。彼らが〈財閥〉と呼ばれるようになったのは,傘下の諸事業を株式会社に改組し,統轄機関である持株会社を設立してコンツェルンの形式を整えてからである。1909年から11年にかけて,三井が銀行,物産,鉱山の三大直系事業を株式会社に改組し,その全株式を保有する持株会社三井合名会社を同族11家の出資で設立した。ついで三菱が1917年から20年にかけて傘下の諸事業を株式会社として独立させ,それまで傘下諸事業を営んでいた三菱合資会社自体は持株会社に改組した。住友が傘下諸事業の株式会社化を進めつつ,住友総本店を持株会社住友合資会社に改組したのは1921年である。三大財閥以外の持株会社名とその創立ないし改組年は,合名会社安田保善社(1912),浅野同族会社(1918),株式会社大倉組(1911),古河合名会社(1911),川崎定徳合資会社(1906)である。これらの財閥とくに三大財閥は第1次大戦中後の好況期には事業を膨張し,20年代の慢性不況期には不振におちいった他企業を傘下に吸収して子会社,孫会社を拡大し,30年前後には日本経済に支配的地位を築いた。
1937年の8財閥傘下企業払込資本金の事業部門別対全国割合を表1に示し,この表を参考にしつつ財閥資本の特徴を指摘してみよう。まず第1に,資本の投下領域が相互に有機的関連のないさまざまな産業にまたがり,とくに三井・三菱の二大財閥では生産・流通・金融のほとんどすべての分野に傘下事業を有していることである。これは商人としての発祥以来多角経営を営んできた帰結であるが,同時にコンツェルンという株式所有によって支配領域を拡大する独占組織の特性にも由来する。ただ,表では明示的ではないが,生産部門では鉱工業に中心がおかれ,製造業で一般に国民経済の基軸部門となる綿工業や鉄鋼業での比重は低かった。これは,綿工業では財閥資本とは系譜を異にする関西系大企業が支配的地位を占め,鉄鋼業はそもそも日本では民間資本の手にあまり,表には含まれていない官営八幡製鉄所(のち日本製鉄)の比重が圧倒的に高かったからである。なお,1930年代には,個別産業部門では財閥系企業を中心としてカルテルが形成されたが,同一カルテル内部の異なった財閥に属する企業間の競合がその市場統制力を弱める傾向にあった。
第2の点は,その家産を基礎としたファミリー・コンツェルンとしての性格から,資本の封鎖性と経営における保守主義が強かったことである。各財閥には財閥同族とその資産管理の規範を定めた〈家憲〉があり,持株会社は合名・合資会社で出資社員は家憲の定める財閥同族に限定されていた。もっとも実際の経営は,とくに三井・住友では番頭の手にゆだねられ,その点で〈所有と経営の分離〉も実現していたが,傘下直系企業の社長には財閥同族が就任していた。さらに直系会社の大部分も株式非公開の非上場会社で,表2に示すように持株会社の持株率は異常に高かった。これは財閥における家産保全志向にもよるが,同時に傘下事業で鉄鋼業のような巨額の資本を要する事業の比重が小さかったことにもよる。その点は経営面での保守主義と結びつき,第1次大戦後の日本経済の重化学工業化に際して,新興財閥に後れをとったことに表現されている。もっとも1930年の昭和恐慌後,軍部ファシストによる財閥攻撃への対応の必要と,満州事変後の準戦時経済→戦時経済下の財閥自身の重化学工業進出に伴う資金需要の増大から,前述の二つの特質はかなり薄まった。三菱を先頭に事業の重点は軍需を中心とした重化学工業に移り,財閥同族の経営の第一線からの引退,傘下事業株式の公開,本社の株式会社への改組とその株式の公開が進められた。それにもかかわらず,この2特質は終戦時まで基本的に維持されたのである。
第2次世界大戦後,日本を占領したアメリカを中心とする連合国は,一連の経済民主化政策を実施した。その一環として,財閥は農業における地主制とともに日本軍国主義の経済的基盤として認識され,財閥解体により持株会社は解体され,財閥同族の企業支配力は集中排除法で排除された。三井物産,三菱商事の二大総合商社をはじめ,いくつかの傘下企業は解体または分割の措置がとられた。財閥同族および持株会社,さらに傘下企業の所有株式はすべて持株会社整理委員会に譲渡され,従業員その他一般投資家に分散された。しかし講和条約の発効前後から旧財閥系企業の再建・再結集が始まり,いわゆる企業集団(企業グループ)が形成されるに至った。企業集団は,同系企業相互の株式持合い,同系金融機関による系列融資,同系企業社長会などが紐帯となっており,旧財閥の閉鎖性,保守主義と異なり,開放性,積極的経営に特徴づけられ,戦後日本経済の高度成長の主役を演じた。
執筆者:柴垣 和夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
財閥は学閥、藩閥などと同様に明治時代に造成されたジャーナリズム用語で、当初、出身地を同じくする財界人グループの共同的事業活動をさすことばとして使用されたが、その後、時代を経るにつれて、三井、岩崎(三菱(みつびし))、住友などの大富豪、あるいは彼らの支配下で営まれる事業体を、財閥とよぶようになった。そして、さらに第二次世界大戦後は、「特定の家族あるいは同族の封鎖的な所有・支配体制の下で展開された多角的事業経営体」と理解されるようになり、今日では学術用語としても定着してきている。
[宇田川勝]
財閥は、その発展期、業態、活動範囲などによって、次のように分類することができる。
〔1〕発展期による分類
(1)その起源を江戸時代・明治初期に求めることができ、明治年間を通じて経営基盤を確立した既成財閥ないし旧財閥とよばれるグループ――三井、三菱、住友、安田、古河(ふるかわ)、浅野、川崎(八右衛門(はちえもん))、藤田など。
(2)明治中ごろに出発し、大正時代、とくに第一次世界大戦期の大戦景気のなかで急膨張を遂げた「大正財閥」とよばれるグループ――鈴木、久原(くはら)、川崎(正蔵)=松方、渋沢、岩井、野村、村井など。
(3)明治末年・大正時代にスタートし、満州事変前後から日中戦争期にかけて台頭した新興財閥あるいは新興コンツェルンとよばれるグループ――日産、日窒(にっちつ)、森、日曹(にっそう)、理研など。
〔2〕業態による分類
(1)総合財閥。金融、商事、海運、各種製造事業分野にわたって事業経営を展開していたもの――三井、三菱、住友。
(2)金融財閥。主として銀行、信託、保険などの金融分野に事業経営を集中したもの――安田、川崎(八右衛門)、野村など。
(3)産業財閥。製造業分野を中心に多角的事業経営を展開したもの――浅野、古河、大倉、新興財閥グループなど。
〔3〕活動範囲による分類
(1)中央財閥。本社が東京、大阪といった大都市にあり、かつ事業活動を全国的範囲で展開していたもの――既成財閥、「大正財閥」、新興財閥グループ。
(2)地方財閥。特定地域の地場産業を中心に多角的経営を追求したもの――福岡県の安川=松本、貝島、麻生(あそう)(炭鉱業)、千葉県の茂木(もぎ)(醸造業)、新潟県の中野(石油業)など。
[宇田川勝]
このようにひと口に財閥といっても、その発展過程・形態はバラエティーに富んでいたが、そこには共通する側面もまたあった。第一に、いずれも多角化志向が旺盛(おうせい)で、その傘下事業はそれぞれの産業部門、あるいは特定地域において支配的地位を占めていた。第二に、発展過程に相応して、傘下事業を順次、株式会社に改組し、それら会社の株式を、財閥家族が排他的に出資する本社が所有するコンツェルン管理を採用していった。第三に、財閥家族の資産は共有資産として集中・管理されており、家族の恣意(しい)的行動は抑制されていた。第四に、専門経営者が事業経営の実権を握っている場合が多く、彼らは一般に財閥の富を近代的ビジネス分野に投下し、それらを育成・強化すべきであるという意識をもって経営にあたっていた。ただし、新興財閥の場合は、創業者が陣頭指揮をしており、事業経営の封鎖的支配も希薄であった。
[宇田川勝]
財閥はけっして日本特有の企業形態ではなかった。私有財産制度が確立しており、しかも富豪が特定事業の経営に満足することなく、その資産を多角的事業分野へ投下する意欲をもつ場合は、どこの国でも財閥は誕生した。とくに工業化の初期段階において、経営資源が限定され、一方、展開すべき事業分野が広範に存在する場合には、財閥あるいはそれに類似する企業集団が出現しやすかった。
明治維新後、後発国として工業化をスタートさせた日本においてもその例外ではなく、前記のような多数の財閥がさまざまな形態をとりながら群生した。ただ、日本の財閥は諸外国のそれに比べて、多角化志向が旺盛で、異種多彩な事業を経営する企業集団の形成を目ざす傾向が強かった。日本が西欧諸国に遅れて工業化を開始したという事情に加えて、近代的ビジネスを早期に育成・確立したいという意識を強くもつ専門経営者が財閥のトップ・マネジメントの中枢を占め、財閥家族を説得しつつ、彼らの富を近代的事業分野へ次々に投下していったからである。そして、そうした企業行動を通じて、財閥は、明治維新後の国家目標であった工業化と経済発展の有力な担い手となり、その面で大きな役割を果たした。
しかし、そうした財閥の役割も第一次世界大戦後の産業構造の高度化のなかでしだいに後退し始める。財閥固有のシステムたる家族の封鎖的持株支配体制に固執する限り、巨額の投資資金を要する重化学工業経営に財閥は十分に対応することができず、それに伴い財閥の企業行動も保守的色彩を強めていったからである。さらに昭和初年の相次ぐ恐慌のなかで財閥の富の集中に対する社会的批判が高まり、1932年(昭和7)3月には最大財閥・三井合名の理事長団琢磨(だんたくま)が右翼の手によって暗殺されるという事態を招いてしまった。それゆえ、財閥、とくに三井、三菱、住友の三大財閥は、社会的批判を回避するため、「財閥の転向」という形で、傘下企業の株式を公開し始め、さらに戦時体制の進展に伴う重税負担・重化学工業進出要請にこたえるため、本社の株式会社化とその一部株式公開などの処置をとらなければならなかった。
このように、工業化の初期過程で大きな役割を果たした財閥も、産業構造の高度化とともにその積極的存在意義を減じていき、第二次世界大戦後、財閥は連合国最高司令部(GHQ)から軍国主義と封建主義の経済的支柱とみなされ、解体された。
[宇田川勝]
『持株会社整理委員会編・刊『日本財閥とその解体』上下(1951)』▽『森川英正著『財閥の経営史的研究』(1980・東洋経済新報社)』
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明治中期以降,出身地を同じくする資本家が協力して株式投資をし会社を支配する場合,甲州財閥などのようにそのグループを財閥とよび,明治末~昭和前期には三井・三菱など個々の富豪の経営体を財閥とよぶようになった。これらはジャーナリズム用語で,第2次大戦後の学術用語では,(1)同族が封鎖的に所有する,(2)多角的事業経営体で,(3)各事業がそれぞれの産業で寡占的な地位を占めるもの,と定義するのが一般的である。経営史学では(3)を含めない見解も有力。(1)~(3)を厳格に適用すると三井・三菱・住友のみとなるが,安田・古河など多角化が不十分なもの,新興財閥の日産など封鎖的でないものを含めることもある。第2次大戦後の財閥解体によって解散した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…アメリカでは,すでに19世紀初頭にコンツェルンが形成されていたが,一般化したのはやはり第1次大戦後である。モルガン(モルガン財閥)やロックフェラー・グループ(ロックフェラー財閥)などが代表的なコンツェルンである。なおアメリカでは,コンツェルンという表現はあまり用いられず,同様の内容を示す用語として利益集団interest groupがある。…
…和紙問屋が洋紙問屋になったり,菜種油問屋が石油問屋になったりした。もっとも大きく変貌したのは,旧来の大商人が財閥になったケースである。呉服・両替業の三井家は貿易と鉱山を兼営するようになって,銀行,貿易,鉱山,呉服(1904分離独立)の財閥となった。…
…USスチール社は1901年に設立された代表的な持株会社であった。第2次大戦前の日本の財閥は,持株会社である財閥本社を根幹とした巨大コンツェルンであった。財閥本社の特徴は,証券代位を行わなかった点にある。…
※「財閥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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