朝日日本歴史人物事典 「土宜法竜」の解説
土宜法竜
生年:安政1.8(1854)
明治大正期の真言宗僧侶,真言宗高野派管長。名古屋に吉造とかつの子として生まれる。幼名,光丸。4歳のとき,伯母の貞月尼を通じて出家し,法竜と称する。明治2(1869)年,高野山にのぼり,真言,天台両宗などの教義を学び,仏教教学の研究に努めた。同26年,米国シカゴで万国宗教会議が開かれた際,日本仏教の代表のひとりとして参加した。会議終了後ヨーロッパに渡り,パリにはギメ博物館仏教部の要請で,5カ月間滞在した。またロンドンでは,滞欧中の博物学者・民俗学者の南方熊楠と出会い,互いに意気投合し,パリ滞在中にロンドンの南方と書簡を交わすに至り,西域・チベットへの仏教探訪の旅を語り合ってもいる。また,南方が那智に帰ってからも文通が続き,南方の宗教観,特に曼荼羅論・宇宙論に大きな影響をおよぼしている。同39年に,仁和寺門跡御室派管長,大正9(1920)年には高野派管長となり,真言宗各派連合総裁,高野山大学総理などを兼任した。<著作>『南方熊楠 土宜法竜 往復書簡』
(川村邦光)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報