出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都北西部の地名。地名の起りは,台地から流れ出る石神井(しやくじい)川に,江戸と川越とをつなぐ古道がわたるのに架した板の橋にある,と伝える。延慶本《平家物語》に〈武蔵国豊嶋ノ滝野川ノ板橋ト云所ニ陣ヲ取ル〉とあるのが記録類での初出である。中世中期以後,豊島氏一族の板橋氏が板橋城に拠って板橋を領した。その子孫らしい人名が熊野那智山の文書や《小田原衆所領役帳》に見える。近世になって宿駅制度が定められると,中山道の第1の宿として板橋宿が置かれ,中心部に問屋場,貫目改所,高札場,本陣などの施設が設けられた。全盛期における宿内旅籠(はたご)の数は54,宿の総延長15町49間(約1.7km)であった。古代以来武蔵国北豊島郡に属したが,1871年(明治4)廃藩置県後は東京府に属し,78年北豊島郡が置かれる際郡役所がこの地に設けられた。89年町村制による町村分合の結果,板橋町,上板橋村などが誕生した。鉄道開通とともに宿駅の繁栄は一挙に失われたが,1876年板橋宿東部の旧加賀藩邸内に設けられた陸軍火薬製造所が軍需産業として興隆し,しだいに活気をとり戻した(1882年に板橋火薬製造所と改称)。1932年東京市の拡大にともない,旧豊島郡9ヵ町村の区域に板橋区が置かれた。面積81km2,人口11万,大東京35区中最大の広さであった。47年その一部が練馬区として分離し,50年埼玉県戸田町の一部を編入して現在に至る。その間軍需景気の波に乗り工業生産が増大し,戦後一時衰えたものの,50年代後半からは機械・金属を中心に一大工業地区を形成している。北部の荒川沿岸の徳丸ヶ原は1790年(寛政2)ごろから幕府の鉄砲演習場となり,のち大砲演習も行われたが,明治以後は水田地帯であったのを,1966年以後公団高島平団地としてマンモス団地が建設された。
執筆者:萩原 龍夫
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