堀秀治(読み)ほり ひではる

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「堀秀治」の解説

堀秀治 ほり-ひではる

1576-1606 織豊-江戸時代前期の武将,大名
天正(てんしょう)4年生まれ。堀秀政長男。天正18年家督をつぎ,越前(えちぜん)(福井県)北庄(きたのしょう)城主。慶長3年上杉景勝(かげかつ)の会津(あいづ)移封により,越後(えちご)(新潟県)春日山(かすがやま)45万石の城主となる。関ケ原の戦いでは東軍に属した。慶長11年5月26日死去。31歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。通称久太郎

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の堀秀治の言及

【出雲崎[町]】より

…1585年(天正13)豊臣秀吉が佐々成政を攻めたとき,上杉景勝が秀吉応援のため,兵糧米を2回越中境村まで送ったことは,港町として文書のうえでの初見である。上杉氏に代わった堀秀治はここに代官前羽庄左衛門をおき,佐渡への渡海は必ず出雲崎からと定めた。徳川幕府もまたここに天領6万石の代官所をおき,江戸へ輸送する佐渡産金を2艘の官船をもって出雲崎へ陸揚げさせ必ず北国街道から輸送させた。…

【越後国】より

…97年(慶長2)1月秀吉は景勝とその家中を陸奥会津に転封を命じ,国主景勝をはじめ,鎌倉御家人の系譜をひく豪族層もこぞって越後の地を去って,越後の中世は終りを迎えた。【阿部 洋輔】
【近世】
 1598年上杉景勝のあとに北ノ庄(現,福井市)から堀秀治が春日山に入城して越後の近世史が始まる。越後国知行高45万石。…

※「堀秀治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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