中部地方の北西部、日本海沿岸にある県。北陸地方の南部に位置し、北東は石川県、東から南にかけては岐阜県、南から西にかけては滋賀県、京都府に接する。県庁所在地は福井市。
1881年(明治14)越前(えちぜん)、若狭(わかさ)の2国をあわせて福井県が成立。県央南寄りの木ノ芽(きのめ)山地によって嶺北(れいほく)、嶺南に大別される。嶺北は敦賀(つるが)市を除く越前国の地域、嶺南は敦賀市と若狭国の地域である。両地方は自然的基盤を異にするだけでなく、生活慣習や言語にも明らかな違いがみられる。嶺北が北陸的であるのに比して、嶺南は近畿地方の影響を強く受けている。
福井県は古来近畿と北陸をつなぐ位置にあり、早くから畿内(きない)の文化の影響を受け、古代には北陸の先進地であり、土地の開拓も進んだ。中世は道元(どうげん)、蓮如(れんにょ)の布教に異色をみせ、とくに蓮如は今日の真宗王国の基を築いた。一方、経済的には日本海側諸地方の産物を京都へ送る中継交易で栄えたが、近世になって西廻(にしまわり)海運の発達で打撃を受けた。新田開発の余地がなかったことも停滞の一因である。明治以降、織物王国となったが、農業県としては後進的であり、とくに土地狭小な嶺南にはみるべき産業がない。近畿・中京に近いことはかえって独自性を失わせている面がある。
1871年(明治4)の人口は約54万6000人、20年後には61万8000人に増加したが、その後は停滞し、第1回国勢調査時(1920)は59万9000人に減少した。第二次世界大戦後の1950年(昭和25)の人口は75万2000人で、その後減少傾向が続いたが、1975年から増加し始め、2000年(平成12)の人口は82万8944人に達した。人口の多い地域は福井平野で、平野に位置する福井、坂井(さかい)、越前の3市で県総人口の50%を超える。就業者人口では第三次産業が全国平均より低く、後進的色彩をぬぐえない。2020年(令和2)時点で、人口76万6863人、面積4190.52平方キロメートル、9市7郡8町からなる。
[島田正彦・印牧邦雄]
嶺北は飛騨(ひだ)高地西縁の両白(りょうはく)山地が広い面積を占め、九頭竜川(くずりゅうがわ)の谷を境にして北は石川県境の加越山地(かえつさんち)、南は岐阜県境の越美山地(えつみさんち)に分かれる。ともに中生代の地層を主とし、1200メートル前後の定高性を示すが、加越山地は上部に小火山体をのせるものが多く、越美山地は火山を欠くが、断層谷の発達が著しい。両山地の間には大野盆地があって、奥越地方の生活圏の中心となっている。加越山地の経(きょう)ヶ岳(1625メートル)などは白山(はくさん)国立公園の一部に含まれ、また奥越高原県立自然公園に指定されている。西部の日本海沿いには第三紀層の低い丹生山地(にゅうさんち)があり、その東に福井平野が展開する。南北約80キロメートル、東西の最大幅約15キロメートルで、日野川、足羽(あすわ)川など九頭竜水系の河川がつくった沖積平野であり、穀倉地帯をなすとともに県下最大の人間活動の場となっている。平野の北端に加越台地があり、西の三里浜砂丘とともに九頭竜川の排水を妨げ、平野の低地湿地性を強めている。嶺南は本州の折れ曲がる所にあたり、断層が集中して複雑な地形をみせる。柳ヶ瀬(やながせ)・熊川両断層に挟まれた破砕帯はその典型で、それが沈水して若狭湾のリアス海岸となる。背後には野坂山地と丹波(たんば)高地の縁辺が迫り、大きな平野はない。日本海沿岸の北部は越前加賀海岸国定公園、南部は若狭湾国定公園に指定されている。
[島田正彦・印牧邦雄]
嶺北は北陸型の気候に属し、冬季に降水量のピークがある。福井市の年降水量は2238ミリメートルで日本有数。同市の1月平均気温は3.0℃で、富山市より0.3℃以上高く(以上、1981~2010年の平均値)、これが重い湿雪を降らせて思わぬ雪害を生み、年によっては雪とならず、恒久的な対策を遅れさせる原因ともなっている。対馬(つしま)暖流の影響を受ける越前海岸は、冬も温暖でほとんど積雪をみずミカンが栽培されるが、奥越など内陸の山間地は福井市よりも1~2℃低く、積雪も2メートルを超えることがある。嶺南の冬は嶺北よりも温暖で、降雪量も少なく、若狭湾の岬には暖帯林が茂る。1月と並んで6月にも降水量のピークがあり、山陰と同じ特徴を示す。
[島田正彦・印牧邦雄]
福井県史の黎明(れいめい)は、米ヶ脇遺跡(こめがわきいせき)(坂井(さかい)市三国(みくに)地区)出土の遺物により旧石器時代の狩猟採集生活から始まることがわかる。福井県は本州日本海沿岸部のほぼ中央に位置し、縄文時代を通じて東西文化が接触し、その影響を受けてきた地域であった。県内に最初に弥生(やよい)文化が伝わったのは若狭湾の沿岸部で、日本海ルートによる可能性が強い。しかし、福井平野での米作りは弥生中期のころまで下るようである。稲作農耕が始まるとともに豊作を祈る祭儀が行われるようになった。銅鐸(どうたく)はこの祭儀に使用された青銅器と推定され、本県は銅鐸文化圏の東限にあたっている。県内には3000基以上の古墳があるが、その大半は福井平野を中心とする越前に集まっている。北陸最大級の前方後円墳が含まれており、越(こし)地方を広く支配した大首長の存在を連想させるものがある。若狭にも1000基以上の古墳があるが、越前に比べ前方後円墳の数は少なく、畿内的色彩が濃い。沿岸部からは多数の製塩遺跡が発見され、とくに若狭湾沿いに多く、古墳時代から土器製塩が行われていたことがわかる。『日本書紀』には、武烈(ぶれつ)天皇の死後皇統が絶えようとしたので継体(けいたい)天皇が越前の三国(みくに)から迎えられて皇位を継いだとある。地方豪族が皇位を継いだことは異例だけに学界の注目を浴びている。越前国名の初見は持統(じとう)天皇6年(692)で、当時の越前国には後の加賀や能登(のと)の国が含まれており、広い地域を占めていた。718年(養老2)越前国から羽咋(はくい)などの4郡を割いて能登国が置かれ、越前は角鹿(つぬが)、丹生(にゅう)、足羽(あすわ)、大野、坂井、江沼、加賀の7郡となった。823年(弘仁14)江沼、加賀の2郡を割いて加賀国を設置、同時に丹生郡から今立(いまだて)郡が独立して越前は6郡になった。若狭は遠敷(おにゅう)、三方(みかた)の2郡であったが、825年(天長2)遠敷郡の一部を割いて大飯(おおい)郡が設けられた。
律令(りつりょう)時代の越前国府は越前(えちぜん)市府中に置かれたと推定され、若狭国府は小浜(おばま)市府中にあった。国分寺は各国府に置かれ、越前国分寺は越前市大虫(おおむし)町に置かれたという説がある。奈良時代には越前は京師の後背地としてきわめて有望視されていた。たとえば、東大寺が大仏造立の経済的基礎を固めるため越前で積極的に荘園(しょうえん)開発を行ったことでも明らかであろう。しかし10世紀の後半には多くの田地が荒廃に帰したようである。越前はまた蝦夷(えぞ)経略や大陸交渉の基地としても利用された。阿倍比羅夫(あべのひらふ)は越地方の海岸沿いに東北に遠征したと思われるし、一方、大陸の渤海(ぼっかい)国からしばしば使節が送られてきたので、敦賀に松原客館が設けられた。
[印牧邦雄]
1183年(寿永2)越前は木曽義仲(きそよしなか)と平氏の戦場となった。鎌倉幕府が成立し、越前、若狭には守護、地頭(じとう)が置かれた。南北朝時代には両国とも宮方(南朝方)と武家方(北朝方)の争いに巻き込まれた。このころ両国には多数の荘園があり、公家(くげ)や社寺の支配を受けていた。越前の興福寺兼春日(かすが)社領河口荘・坪江荘(つぼえのしょう)(坂井市)、若狭の東寺領太良荘(たらのしょう)(小浜市)が有名である。
1243年(寛元1)越前の志比(しい)荘(吉田郡)に入った道元は永平寺(えいへいじ)を建てた。また1471年(文明3)越前入りした本願寺8世蓮如(れんにょ)は吉崎御坊(よしざきごぼう)(あわら市)を拠点に布教活動をし、越前は真宗本願寺教団(一向(いっこう)宗)の教線が著しく伸び、のちに北陸各地で起きた一向一揆(いっき)の母体となった。南北朝時代に但馬(たじま)(兵庫県)から越前に入った朝倉氏は、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)のとき、孝景(たかかげ)が主家の斯波(しば)氏から守護職を奪い、越前を支配した。孝景は一乗谷(いちじょうだに)(福井市)に居館を構え、以後一乗谷は約1世紀にわたって越前の政治、文化の中心として光彩を放った。朝倉氏遺跡は、1967年(昭和42)からの発掘調査により中世城下町の貴重な遺跡、遺物が明らかになり、特別史跡に指定されている。1573年(天正1)朝倉氏は織田信長に滅ぼされ、一向一揆も平定され、越前は柴田勝家(しばたかついえ)の治下となった。勝家は北庄(きたのしょう)(福井市)に城を構えたが、1583年には羽柴秀吉(はしばひでよし)に敗れ自刃した。
[印牧邦雄]
関ヶ原の戦い後、徳川家康の二男結城(ゆうき)(松平)秀康(ひでやす)が越前国68万石に封ぜられ、1601年(慶長6)に入部したが、2代忠直以後たびたび改易処分を受け、松平氏福井藩は石高(こくだか)が半減した。幕末の1838年(天保9)16代藩主となった松平慶永(よしなが)(松平春嶽(しゅんがく))は藩政の危機を打開するため積極的に人材を登用した。横井小楠(しょうなん)、橋本左内(さない)、三岡石五郎(由利公正(ゆりきみまさ))らである。幕末の福井藩は公武合体雄藩として当時の中央政界に雄飛した。
越前には、このほか江戸中期に有馬氏丸岡(まるおか)藩4万6000石、土井氏大野藩4万石、小笠原(おがさわら)氏勝山藩2万2000石余、間部(まなべ)氏鯖江(さばえ)藩4万石、酒井氏敦賀(鞠山(まりやま))藩1万石の諸藩があり、また天領、旗本領もあった。一方、若狭では1600年(慶長5)京極(きょうごく)高次が8万5000石で小浜に入封したが、1634年松江に移封、以後酒井氏小浜藩11万3000石余で明治に至った。
[印牧邦雄]
1871年(明治4)の廃藩置県で福井、丸岡、大野、勝山、鯖江、小浜の6県が成立したが、同年11月には福井、敦賀の2県に統合された。1873年福井県(のち足羽県)は敦賀県と合併、越前、若狭は1行政区に統合された。1876年敦賀県を廃し、嶺北7郡は石川県に、嶺南4郡は滋賀県に分割、1881年になってようやく嶺北、嶺南11郡が統合しほぼ現在の福井県が成立した。1889年市町村制実施で県内は1市9町168村となった。
明治初期、新政府の神仏分離政策に反対して大野、今立、坂井の3郡で参加者3万数千という大規模な一揆が起こった。一揆は政府の新暦採用、断髪令などにも反対する意味合いをもっていた。一揆は死刑6名の犠牲を出して鎮圧されたが、さらに1876年には地租改正に反対する運動が起こった。しかし一揆には発展しなかったことは注目される。
明治時代、福井は織物王国といわれたが、福井はもともと織物業地、生糸産地として知られた地ではなく、欧米視察から帰国した由利公正が、絹織物業をおこすことを蚕業家酒井功らに勧告したことに始まる。やがて織工会社がつくられ、1892年ころから福井県特産の羽二重(はぶたえ)織物の生産が活発になった。大正初期には力織機(りきしょっき)の使用で福井機業の地位は確固たるものとなった。明治末期、敦賀港は三国(みくに)港の衰微とは反対に対外貿易港として発展し、敦賀―ウラジオストク間、敦賀―清津間の航路も開かれた。
第二次世界大戦の末期、福井市、敦賀市は空襲により大きな被害を受け、大戦後の1948年の福井地震は当時の福井市、坂井郡、吉田郡などの地域に甚大な損害を与えた。
[印牧邦雄]
県の農業は稲作が中心で、2015年(平成27)の世界農林業センサスによると、経営耕地面積4万0600ヘクタールのうち水田が90%を超える。米単作地であるが、これは排水不良の沖積低地が広く、積雪のため裏作に不向きなことによる。明治初期には低地でも旧河道や自然堤防の砂地で自給用の畑作がかなり行われており、単作化は自給をやめて米の商品化を進めた結果でもある。早場米も同じで、元来、秋の冷湿を避けて早生(わせ)種を栽培していたが、関西市場での西南暖地の良質米との競合を避け、端境期に出荷するためしだいに収穫期を早めたのである。近年は品種改良が著しく、コシヒカリは福井県農業試験場の産物であり、さらに倒伏と病害に強いフクホナミを生んだ。減反下に飼料米栽培に熱心なのも農民の米への強い執着を示す。1950年代後半から米作の機械化が進むとともに農家の兼業化が急速に進んだ。2015年時点では、総農家2万2872戸のうち自営農業を従とする第2種兼業農家は1万1542戸で約50%を占める。会社員、パートなど、勤めに出、田植は5月の連休、刈り入れはお盆休みという農家が一般化し、米作は休日農業化した。暗渠(あんきょ)排水などにより湿田が乾田化し、機械化を可能にしたが、それが農業の周年化とならず、労働力の農業以外への流出となった。加越台地の野菜・果樹栽培や酪農、三里浜砂丘のラッキョウ・スイカ栽培、三方(みかた)五湖周辺のウメ・ブドウ栽培などがみられるが、いずれも小規模で、かつて全国的に知られたラッキョウ栽培も福井臨海工業用地の造成で減少した。牧畜は不振であるが、奥越の大野市六呂師(ろくろし)高原に奥越高原牧場があり、若狭(わかさ)町に若狭牛の復活を目ざす嶺南牧場がある。
山林はかつて焼畑慣行のあった共有林野が広く、雑木を薪炭に利用してきた。第二次世界大戦後、越美山地の池田町、福井市美山町地区を中心に杉の植林が進んだが、原価が高いため伐採期を前に需要がなく、労力不足で管理も十分に行われない現状である。越前市味真野(あじまの)はスギ苗、大野市朝日地区とおおい町名田庄(なたしょう)地区は薬用のオウレンを特産する。
[島田正彦・印牧邦雄]
若狭湾は中世に延縄(はえなわ)漁が行われた漁業先進地で、漁獲されたカレイは塩蒸しして京都に送られ蒸し鰈(がれい)として珍重された。明治末にブリ定置網が導入され、丹生(にゅう)、日向(ひるが)、常神(つねがみ)などの好漁場がある。また小浜はアメリカ式巾着(きんちゃく)網を日本で最初に操業し、サバ漁が盛んであったが、現在は行われていない。波静かな湾奥ではハマチ、フグの蓄養やガザミ、真珠の養殖が盛んである。嶺北は海岸線が単調で、漁業はあまり振るわない。大正期に機船底引網が導入されエチゼンガニの漁獲で知られ、昭和40年代に一時沖合イカ釣りが盛んになった。三国(みくに)港と越前町四ヶ浦(しかうら)が主要な漁港である。しかし、乱獲でカニは絶滅のおそれがあり、それにかわるアマエビも不安がある。
[島田正彦・印牧邦雄]
県下で唯一重要だった鉛・亜鉛の中竜鉱山(なかたつこうざん)は1987年(昭和62)に閉山。南越前(みなみえちぜん)町では珪石(けいせき)の産出がある。工業は明治以降、織物王国として知られる。西陣、桐生(きりゅう)から技術導入した羽二重(はぶたえ)に始まり、世界恐慌期に人絹、昭和30年代に合繊とかわったが、豊富な労働力を基盤にして、輸出向けに発展した。近年は開発途上国の追いあげで構造的不況に陥り、織機の廃棄や生産制限にもかかわらず、前途は明るくない。業者の多くは原糸メーカーや大手商社の系列に組み込まれ、織工賃のみを稼ぐが、不況下でもつねに設備の更新を迫られている。一方、高能率のジェット織機によって一部製品は生産過剰を生じている。染色・整理加工部門と商社機能は福井市に集中するが、製織は嶺北に広く分布し、農村にも零細工場があって、米の単作地にかつて広くみられたさまざまの農産加工が形を変えたことを示している。勝山市は明治中期のたばこ専売制実施で刻みたばこから機業に転じ、比較的規模の大きい工場があって福井市に次ぐ中心地となり、坂井(さかい)市、永平寺(えいへいじ)町、越前市ではリボン・マークなど小幅もの織物を生産する。大正期から盛んとなった鯖江(さばえ)市の眼鏡枠工業は全国の約90%を生産し、海外にも販路を広げるが、安い労賃に頼る零細手工業の本質は変わらない。工業団地もあるが、大半は家内工場で生産される。近年嶺北の各地や小浜市周辺に進出した電気機器や縫製業の工場も農村の余剰労働力を利用するものである。伝統工業には越前市(旧、武生(たけふ)市)の打刃物、鯖江市河和田(かわだ)の越前漆器と小浜市の若狭塗、越前市粟田部(あわたべ)の和紙がある。なかでも和紙はかつて奉書紙で知られたが、溜(た)め漉(ず)きの技法による局紙(きょくし)や襖(ふすま)紙、美術小間(こま)紙に新境地を開き、越前紙として全国に独特の地位を占める。
重工業は著しく立ち後れ、織物関連の化学・機械を除くと、大正期に余剰電力を利用した越前市(旧、武生市)の化学肥料・冶金(やきん)と第二次世界大戦後の塩化ビニル、あわら市(旧、金津(かなづ)町)の製紙、敦賀市のセメント・合板などの工業がみられるにすぎない。県は重化学工業を誘致して経済基盤の強化を図るため、1971年(昭和46)三里浜に掘込みの福井新港と臨海工業用地を造成したが、経済環境の悪化で企業の立地は進まず、基幹工場となるはずだったアルミ精錬は二次加工に縮小された。苦境打開のため、県は未造成の最南部に国の石油備蓄基地を受け入れ、1986年に基地は完成したが、地元経済への波及効果は期待できず、公害の危険と起債の借財だけを背負わねばならなくなった。
[島田正彦・印牧邦雄]
嶺北では1955年に真名(まな)川総合開発、1965年に九頭竜川電源開発工事に着手した。多目的ダム築造が中心の第二次世界大戦後の開発第一期の型である。
若狭湾沿岸では1970年日本原子力発電敦賀発電所が運転を開始。続いて関西電力の美浜、高浜、大飯(おおい)の各原子力発電所が建設され、さらに1991年(平成3)には敦賀市白木(しらき)に動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の高速増殖炉「もんじゅ」が建設された(動燃は1998年9月に解団し、同年10月より核燃料サイクル開発機構に継承。核燃料サイクル開発機構は2005年10月に日本原子力研究所と統合し、日本原子力研究開発機構となった)。「もんじゅ」は試運転中の1995年に起きたナトリウム漏れ事故や2010年(平成22)に起きた炉内中継装置の落下事故により運転を停止していたが、政府は2016年12月に廃炉を正式に決定した(廃炉作業は2018年3月から開始)。2023年(令和5)8月時点で、原子力発電所は8基が立地し、原発密集地ともいえる。この状況は、需要地の関西に近く、花崗(かこう)岩の固い岩盤と冷却用に海水を利用できるという立地条件によるが、陸の孤島であった半島の住民が道路敷設などの見返りに開発を受け入れたからでもある。しかし、生活条件は改善されず、美浜原子力発電所での緊急炉心冷却装置が作動する重大事故(1991)など、放射能漏れの不安にさらされている。
1971年に着工した三里浜の福井臨海工業地帯は、港湾を整備して重化学工業を誘致する開発第二期の型で、名古屋港に始まり、富山・金沢新港も同類型である。福井新港、工業用地ともほぼ完成した。しかしその後、この臨海工業地帯開発計画は経済状況の変化などによる見直しが行われ、重化学工業から先端科学技術を中心とする「テクノポート福井」としての開発に変更された。
[島田正彦・印牧邦雄]
嶺北、嶺南をそれぞれ縦貫するJR北陸本線と国道8号、小浜線(おばません)と国道27号が陸上交通の幹線である。国道8号、27号はかつての北陸道、丹後(たんご)街道に相当する。北陸自動車道(米原(まいばら)―福井―新潟)も通じ、1980年名神高速道と結ばれ本格的な高速道時代に入った。2014年(平成26)には舞鶴若狭自動車道が全線開通した。ほかに嶺北の海岸を縦貫する国道305号、嶺北を横断するJR越美(えつみ)北線と国道158号、大野市から勝山市を経て石川県へ至る国道157号、若狭町から滋賀県高島市に至る国道303号も重要であり、303号はかつての九里半(くりはん)越えである。また、福井市と越前市間を福井鉄道福武線、福井市と坂井市間および勝山市間をえちぜん鉄道が結ぶ。福井空港は1966年開港したが1976年以降、航空会社の定期便の就航はない。航空交通は石川県の小松(こまつ)空港に依存している。海運は近年に進展をみせ、高速フェリーによって敦賀と新潟、秋田、苫小牧(とまこまい)間を結んでいる。
[島田正彦・印牧邦雄]
江戸時代後半、越前、若狭の諸藩は相次いで藩校を開き子弟の教育に力を注いだ。1774年(安永3)小浜藩の順造館をはじめ、19世紀に入って丸岡藩の平章(へいしょう)館、鯖江藩の進徳館、福井藩の正義堂、勝山藩の成器(せいき)堂、大野藩の明倫(めいりん)館などが続いた。儒学が中心であったが、丸岡藩は蘭学(らんがく)者桂川甫周(かつらがわほしゅう)を招き、福井藩も藩校を拡充して明道館と改め、適塾や長崎に学んだ橋本左内を学監にし、暦学、医学、蘭学を加え、さらに洋書習学所を設立した。大野藩も蘭学所を設け、適塾から伊藤慎蔵(しんぞう)を招き、学生は全国から集まった。『海上砲術全書』『英吉利(イギリス)文典』などの翻訳出版は小藩の文化事業として特筆される。内山良休(りょうきゅう)・隆佐(りゅうさ)兄弟と藩船大野丸による奥蝦夷(えぞ)(サガレン)開拓もこの進取の精神につながる。1754年(宝暦4)山脇東洋(やまわきとうよう)の人体解剖は、当時の京都所司代小浜藩主酒井忠用(ただもち)の後ろ盾による。『解体新書』翻訳の中心となった杉田玄白(げんぱく)、中川淳庵(じゅんあん)は小浜藩医、北陸に種痘を広めた笠原白翁(かさはらはくおう)は福井藩医であった。国学者の小浜藩士伴信友(ばんのぶとも)、福井の町人歌人橘曙覧(たちばなあけみ)も見逃せない。明治以降これらの伝統は十分に受け継がれず、高等教育機関は福井師範、鯖江女子師範と福井工業専門学校が設けられたにすぎない。それを継いだ福井大学も教育・工学部のみであったが、1980年(昭和55)に国立福井医科大学が開校された。福井医科大学は2003年(平成15)福井大学と統合、福井大学に医学部が設置された。ほかに福井県立大学、敦賀市立看護大学、私立福井工業大学、私立仁愛大学、私立福井医療大学、高等専門学校1校がある(2018)。
新聞は旧福井藩士富田厚積の『撮要(さつよう)新聞』(1872刊)を最初に、『福井新聞』『越陽(えつよう)絵入新聞』『北陸自由新聞』が明治初期に創刊されたがいずれも短命に終わった。現在は1899年(明治32)創刊の『福井新聞』と『日刊県民福井』がある。放送はNHK福井放送局、福井放送、福井テレビ、福井エフエム放送、福井街角放送(Radioあいらんど)、たんなん夢レディオ、敦賀FM放送などがある(2018)。
[島田正彦・印牧邦雄]
話しことばの違いにみられるように、より北陸的な嶺北と、近畿に近い嶺南では、生活文化を異にする場合がある。嶺南は伝承民俗の宝庫で、さまざまの伝統行事があるが、なかでも若狭は壬生(みぶ)狂言、六斎(ろくさい)念仏、地蔵盆など京都の影響が強い。敦賀市は若狭、嶺北のいずれにも共通する要素があり、嶺南のなかではやや趣(おもむき)を異にする。たとえば、同市砂流(すながれ)高岡神社の槻(つき)の木に注連縄(しめなわ)を張る勧請吊(かんじょうつる)しの行事と同じものが若狭各地にあり、同市沓(くつ)のじゅずくりは南条郡南越前町にもある。真宗信仰の盛んな嶺北は民俗行事に乏しいが、北陸や東北地方の日本海側と通じるものが所々に残る。たとえば、福井市白浜町では節分の晩に鬼の面を着けたアマメンが現れるが、これは能登(のと)のアマメハギ、秋田県男鹿(おが)のなまはげと同じである。また、越前(えちぜん)市余田(はぐり)町では田の神の祭りをアイノコトとよぶが、能登ではアエノコトという。
以下、地域別に年中行事を追っていくと、嶺北各地の正月は、大正末まで越前万歳の門付(かどづけ)で明けた。江戸時代にも、元旦(がんたん)には各藩の大手門はこの万歳で開かれたという。いまに残る越前市の越前万歳(野大坪(のおおつぼ)万歳)は国の重要無形民俗文化財である。勝山市では1月末に年(とし)の市、2月末に左義長(さぎちょう)がある。4年目ごとの2月14日、福井市清水(しみず)地区賀茂(かも)神社で行われる睦月(むつき)神事(国の重要無形民俗文化財)は豊作祈願の予祝行事。同15日、池田町水海(みずうみ)の鵜甘(うかん)神社に奉納される田楽(でんがく)能舞(国の重要無形民俗文化財)は中世の田楽・猿楽(さるがく)の風を伝える。諸国巡回の途中、雪に閉じ込められた北条時頼(ときより)を慰めるため、里人が田楽を舞い、お返しに能を習ったと伝える。偶数年の4月18日に行われる福井市の仏の舞「糸崎の仏舞(ほとけのまい)」(国の重要無形民俗文化財)は長男の青年8人が仏の面を着けて舞うもの。4月23日から5月2日は蓮如(れんにょ)忌である。京都の東本願寺から蓮如の御影(ごえい)が旧北陸道を通って、23日の夕方吉崎へ到着する。5月初め、福井市では佐佳伎廼(さかえの)社・神明神社と春祭が続き、19~21日は坂井(さかい)市三国(みくに)神社の祭礼(三国祭)である。同社は継体(けいたい)天皇らを祀(まつ)る。継体天皇は越前では男大迹尊(おおどのみこと)として知られ、足羽山(あすわやま)の笏谷石(しゃくだにいし)の採取や越前和紙・漆器などを始めたと伝える。祭りは、港町の繁栄を伝える武者人形の山車(だし)が呼び物となり、北陸三大祭の一つに数えられる。お盆には各地に種々の踊りが伝わる。南越前町の羽根曽(はねそ)踊、福井市白山(はくさん)神社や大野市上打波(かみうちなみ)のかんこ踊(神子(かんこ)踊)、西谷(にしたに)の平家踊などである。廃村となった上打波、西谷の人々は移住先の大野市街で踊り継ぐ。秋祭は9月14日の坂井市布久溜(ふくる)神社の「表児の米(ひょうこのこめ)」、10月9日の越前町織田(おた)の越前二宮劔(にのみやつるぎ)神社の明神囃子(ばやし)が代表である。
嶺南では正月15日各地で豊凶を占う綱引きが行われる。敦賀市相生(あいおい)町の「敦賀西町の綱引き」行事は国指定重要無形民俗文化財。美浜町日向(ひるが)では、日向湖と海を結ぶ水路に渡した太い藁(わら)綱を裸の若者が争う水中綱切りとなる。2月の旧正月には敦賀市野坂神社でお田植神事のダノセ祭があり、同市高野では青竹の弓で矢を射て悪魔を払い、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る「毘沙講(びしゃこう)」がある。3月2日は若狭に春をよぶ小浜市神宮寺のお水送りが行われる。遠敷(おにゅう)川の鵜の瀬(うのせ)に香水を注ぎ、それが地下を通って奈良東大寺二月堂に着くと信じられている。4月から5月にかけて若狭湾一帯では悪魔払いの「王の舞」がみられる。4月8日、若狭町宇波西(うわせ)神社では素襖(すおう)姿に鼻高朱面、鳥甲(とりのかぶと)を着け、鉾(ほこ)を手にして舞う。舞人を突き倒すと豊作・豊漁だといい、警護の目をかすめて他村の者が襲いかかる。同町国津(くにつ)神社、闇見(くらみ)神社、美浜町弥美(みみ)神社の祭りにも行われ、由来は不明ながら宮中の舞楽の原型ともいわれる。4月3日の小浜市矢代(やしろ)の手杵祭(てぎねまつり)は漂着した唐船の姫と女官を住民が殺したが、その霊を慰めるものという。豊作の予祝と雛(ひな)祭が重なったものらしい。6月には各地にお田植祭がある。7月22日敦賀市気比神宮(けひじんぐう)の総参(そうのまい)りには対岸約5キロメートルの常宮(じょうぐう)神社へ神輿(みこし)が渡御する。神功(じんぐう)皇后の朝鮮遠征の故事にちなみ、海上安全と豊漁を祈る。8月のお盆には各地で六斎念仏が盛んに行われ、同23日は小浜市を中心とする地蔵盆で、子どもたちが「お地蔵さん」にお供え物をし、通行人にも参拝を強要する。小浜市西津では子どもたちが絵の具などで「お地蔵さん」を美しく塗り上げ、化粧地蔵とよぶ。9月2日~15日と長い気比神宮の例祭は長祭とよばれる。10月20日の敦賀市金崎(かねがさき)宮の例祭はお船遊び管絃(かんげん)祭で、新田義貞(にったよしさだ)らが尊良(たかなが)親王を慰めた故事によるという。12月2日、敦賀市曽々木(そそぎ)で霜月(しもつき)祭がある。「おんばさん」とよばれる少女が2人、笙(しょう)ノ川で禊(みそぎ)をし、新米の白蒸しや小豆(あずき)を入れたハンギリを頭にのせ若宮八幡宮(はちまんぐう)に供える。同9日、同市赤崎で山の神講がある。新築した家が講宿になり、小学生の男子がパンツ1枚で裏山の大日堂に駆け登り、ツトを供え、シトキを顔や体に塗って引き揚げてくる。
[島田正彦・印牧邦雄]
嶺南の小浜市は「海のある奈良」と称され、古代から中世にわたる文化財を集める。国指定重要文化財を中心に列挙していくと、仏像では正林(しょうりん)庵の如意輪観音半跏(はんか)像(白鳳(はくほう)期)、多田寺の薬師如来立像(奈良時代~平安初期)、羽賀(はが)寺の十一面観音立像(平安初期)、妙楽(みょうらく)寺の千手観音立像(平安中期)、明通(みょうつう)寺の薬師如来坐像(ざぞう)(平安後期)、蓮華(れんげ)寺の薬師如来立像(鎌倉時代)があり、建築物では国宝の明通寺本堂・三重塔(鎌倉時代)のほか、妙楽寺本堂(鎌倉時代)、羽賀寺本堂(室町時代)など、絵画では万徳(まんとく)寺と長源(ちょうげん)寺の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像(鎌倉時代)、書では高成(こうじょう)寺の印可状(南北朝時代)と履践(りせん)集(室町初期)などがある。おおい町意足(いそく)寺の千手観音立像(平安後期)、若狭町安楽寺の聖観音立像(平安後期)、高浜町中山(なかやま)寺の本堂(室町初期)なども優品である。敦賀市では気比神宮大鳥居(1645年建立)、西福(さいふく)寺観経変相曼荼羅(まんだら)(鎌倉中期)、高麗末期の主夜神像などを伝える。常宮(じょうぐう)神社には太和7年(833)銘の朝鮮鐘(国宝)がある。豊臣秀吉(とよとみひでよし)出兵のときの戦利品である。
嶺北では永平寺が文化財の宝庫であり、道元自筆の普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)、附普勧坐禅儀撰述記(せんじゅつき)(国宝)のほか、後円融(ごえんゆう)院宸翰(しんかん)、高祖嗣書(ししょ)などがある。坂井(さかい)市には瀧谷寺(たきだんじ)に金銅宝相華唐草文磬(ほうそうげからくさもんけい)(国宝、平安末期)、地蔵菩薩画像(鎌倉時代)、鎮守堂(室町時代)、性海(しょうかい)寺に地蔵菩薩画像(鎌倉時代)などがある。越前町の劔(つるぎ)神社には神護景雲(じんごけいうん)4年(770)銘の梵鐘(ぼんしょう)(国宝)、同町の大谷(おおたん)寺は不動明王立像(平安後期)、元亨(げんこう)3年(1323)銘の石造九重塔を残す。福井市は安養(あんよう)寺に阿弥陀(あみだ)如来二十五菩薩来迎(らいごう)図(平安末期)、藤島神社に新田義貞着用と伝える鉄製銀象眼冑(ぞうがんかぶと)、心月(しんげつ)寺に朝倉孝景(たかかげ)・義景(よしかげ)画像など、浄得寺に世界及日本図屏風(びょうぶ)(桃山時代)などがある。また坂井市にある桃山時代の建造物丸岡城天守(1576年築造)、江戸時代の民家建築に奥越の池田町の農家堀口家住宅、越前町では朝倉氏の一族で庄屋を務めた相木(あいき)家住宅が国の重要文化財に指定されている。
国指定史跡には特別史跡の一乗谷朝倉氏遺跡のほか、若狭町の西塚古墳、上ノ塚(じょうのづか)古墳など、小浜市の若狭国分寺跡、南北朝時代の敦賀市の金ヶ崎城跡、南越前町の杣山(そまやま)城跡、勝山市の白山平泉寺旧境内、あわら市の吉崎御坊跡などがある。また、国指定名勝には勝山市の旧玄成院(げんじょういん)庭園、坂井市の滝谷寺庭園、敦賀市の柴田氏庭園(甘棠(かんどう)園)、小浜市の萬徳寺庭園などがある。また1991年(平成3)に一乗谷朝倉氏遺跡内の庭園が国指定特別名勝に指定されている。
[島田正彦・印牧邦雄]
福井市足羽(あすわ)山の足羽神社の主神は26代の「継体(けいたい)天皇」である。25代の武烈(ぶれつ)天皇は先帝の后(きさき)に懸想したが、后が意に従わないので「うつぼ舟」に乗せて海へ流した。越前に流れ着いた后は御子を生んだ。その御子が継体天皇だと『劔(つるぎ)神社盛衰記』に記されている。北庄(きたのしょう)城で柴田勝家(しばたかついえ)が自刃したのは1583年(天正11)4月24日である。命日の夜、大橋から毛矢町まで勝家らの首のない行列が通り、その行列を見た者は死ぬといわれ、住民は戸締りを厳重にして外出しなかったという。福井2代藩主松平忠直(ただなお)は一国にもかえがたい美しい女を得た。「一国女(いっこくじょ)」と名づけたが、女は残虐なことを好み、忠直に1万余の人を殺させた。そのことが公儀の知るところとなり忠直は豊後(ぶんご)に配流、一国女は処刑されたと『続片聾(しょくへんろう)記』は記している。「八百比丘尼(はっぴゃくびくに)」の伝説は若狭(わかさ)を中心に全国にわたっている。小浜(おばま)市男山の空印(くういん)寺の境内に八百比丘尼入定洞(にゅうじょうどう)という洞窟(どうくつ)がある。老尼は少女のころ、人魚の肉を食べたので長寿を保ち容色が衰えなかったという。諸国遊行ののち尼僧は小浜に帰り、食を断って死んだ。生前、ツバキの花を愛したので玉椿(たまつばき)姫といわれたという。八百比丘尼の伝説は、ツバキの枝を手に持つ熊野比丘尼の語部(かたりべ)が諸国へ伝えたものであろう。景勝地「東尋坊(とうじんぼう)」には、平泉寺の悪僧が仲間の僧に突き落とされたという伝説がある。東尋坊という地名はその悪僧にちなんだものという。悪僧の命日には海が荒れ、漁師は舟を出さないという。永平寺山内に「血脈(けちみゃく)池」がある。地頭(じとう)波多野(はたの)義重の愛妾(あいしょう)が本妻のねたみを受け、この池に落とされて殺された。愛妾おきちが亡霊となって祟(たた)りをするが、道元がこれを哀れみ、血脈を池に投げ入れて供養したという。港町三国(みくに)の西光寺に「三国小女郎(こじょろう)」の墓がある。「酒は酒屋で、濃い茶は茶屋で、三国小女郎は松の下」の三国節で知られている小女郎は、江戸初期の名妓(めいぎ)だった。遊女の身で親の仇(あだ)を討ち取って勇名を天下に響かせたという。
[武田静澄]
『『福井県史』全4冊(1920~1922・福井県)』▽『『福井県繊維産業史』(1971・福井県繊維協会)』▽『印牧邦雄著『福井県の歴史』(1973・山川出版社)』▽『杉原丈夫編『越前若狭の伝説』(1976・安田書店)』▽『斎藤槻堂著『越前若狭の民俗事典』(1981・銀泉書店)』▽『『日本歴史地名大系18 福井県の地名』(1981・平凡社)』▽『『角川日本地名大辞典18 福井県』(1989・角川書店)』▽『『福井県大百科事典』(1991・福井新聞社)』▽『島田正彦編『にっぽん再発見18 福井県』(1997・同朋舎)』▽『松原信之編『福井県の不思議事典』(2000・新人物往来社)』
福井県北部、福井平野の中央部にある市。県庁所在地。1889年(明治22)市制施行。1936年(昭和11)足羽(あすわ)郡和田、木田の2村、1939年同郡東安居(ひがしあご)村、1941年吉田郡円山東(えんざんひがし)村、1942年円山西村、1951年吉田郡西藤島村、1954年足羽郡社(やしろ)村、丹生(にゅう)郡西安居(にしあご)村、1955年吉田郡中藤島村、1957年坂井郡大安寺村、吉田郡河合村、足羽郡麻生津(あそうづ)村、1959年丹生郡国見村、1961年吉田郡藤岡村、1963年丹生郡殿下(でんが)村、1967年坂井郡川西町、吉田郡森田町、1971年足羽郡足羽町を編入。2000年(平成12)特例市に指定。2006年足羽(あすわ)郡美山町(みやまちょう)、丹生(にゅう)郡越廼村(こしのむら)、清水町(しみずちょう)を編入。2015年に施行時特例市、2019年に中核市に移行。JR北陸本線・越美北線(えつみほくせん)、福井鉄道福武線、えちぜん鉄道勝山永平寺線、三国芦原(みくにあわら)線、国道8号、158号、305号、364号、416号、476号が通じ、北陸自動車道の福井インターチェンジ、福井北ジャンクション・インターチェンジがあり、後者から中部縦貫自動車道が分岐する。面積536.41平方キロメートル、人口26万2328(2020)。
[印牧邦雄]
市域東部は福井平野が占めるが、西部は第三紀層からなる丹生山地で、国見岳(656メートル)、金毘羅(こんぴら)山(625メートル)などの山々が連なる。山地の北方は三里浜(さんりはま)砂丘へ続く。北部を西流する九頭竜川(くずりゅうがわ)は、網戸瀬(あとせ)地区で北流してきた日野川と合流して向きを北に転じ、坂井(さかい)市三国地区で日本海に入る。足羽川は、市街を貫流し日野川と合流する。
[印牧邦雄]
福井はもと北庄(きたのしょう)と称したが、1624年(寛永1)福居(のち福井)と改めた。北庄の「北」は敗北に通じ、武門にとって不吉だからという説、北庄城天守台のそばにあった名井(めいせい)の名をとったという説などがある。旧市街は、足羽山麓(さんろく)とその北を流れる足羽川の自然堤防上の集落を起源とする。鎌倉時代には守護所が置かれ、南北朝時代には朝倉氏の居館があったが、室町時代になると朝倉氏は一乗谷に移った。1575年(天正3)柴田勝家(しばたかついえ)が足羽川と旧吉野川の合流点で、北陸道が通じる要地に北庄城と城下町を建設した。柴田氏滅亡後、丹羽、堀、青木の各氏が北庄城主となったが、1601年(慶長6)結城秀康(ゆうきひでやす)(越前松平家初代)が入部、約1キロメートル北方に新たに北庄城を築いた。1606年完成し、以後松平氏68万石(のち32万石)の福井藩の城下町として明治維新に至った。1871年(明治4)の廃藩置県で福井県都となり、その後統廃合があったが、1881年福井県が成立するとその県庁所在地となった。1896年には北陸線(現、JR北陸本線)が開通し、旧福井城付近は市の中心となった。
1945年7月19日、米軍による空襲で旧福井市街は95%を焼失し、死者は1576人に上った。さらに1948年6月28日の福井地震、同年7月の水害によって多くの損害を被ったが、その後都市計画が進み、広い道路や高い緑化率を誇っている。
[印牧邦雄]
明治維新後、財政家由利公正(ゆりきみまさ)らの勧奨によって近代産業として織物業がおこり、とくに羽二重(はぶたえ)生産が急速に普及発展した。日露戦争後の好況に続いて第一次世界大戦中は輸出羽二重が盛況で、福井は羽二重生産の王座を占める機業都市となった。しかし1929年に始まる世界経済恐慌により機屋(はたや)の倒産が続出し、羽二重生産は壊滅状態になった。これにかわったのが人絹織物である。1932年世界最初の人絹取引所が設置され、人絹王国福井の名は世界に知られた。第二次世界大戦後は合成繊維の生産が非常な勢いで伸び、全国有数の産地になった。また、化学工業、機械工業などの伸びも著しく、臨海工業地域テクノポート福井、工業団地テクノパーク福井が造成されている。農業は米作、野菜・果樹栽培などが行われる。野菜ではスイカ、トマト、果樹ではブルーベリー、イチジクの栽培に力が入れられている。
[印牧邦雄]
旧市域東部の一乗谷は、朝倉氏が北庄から居城を移し、100年にわたって越前(えちぜん)支配の拠点となった所で、発掘調査が進み、一乗谷朝倉氏遺跡として国の特別史跡に、またその庭園は特別名勝に指定されている。旧市街地北方の新田塚町(にったづかちょう)には燈明寺畷(とうみょうじなわて)新田義貞(よしさだ)戦歿伝説地(国の史跡)があり、足羽山中腹の藤島神社は義貞のものと伝えられる鉄製銀象眼冑(ぞうがんかぶと)(国の重要文化財)を蔵する。福井藩主別邸の養浩館(ようこうかん)(旧御泉水(おせんすい)屋敷)庭園は国指定名勝。加茂神社の睦月神事、育王山糸崎寺で行われる「糸崎の仏舞(ほとけのまい)」は国指定重要無形民俗文化財、丹生山地の田遊び「国山の神事」は国選択無形民俗文化財である。日本海沿岸一帯は越前加賀国定公園域。
[印牧邦雄]
『『新修福井市史』全2巻(1970、1976・福井市)』▽『印牧邦雄著『わが町の歴史 福井』(1980・文一総合出版)』▽『『福井市史』全17巻19冊(1988~2004・福井市)』
基本情報
面積=4189.83km2(全国34位)
人口(2010)=80万6314人(全国43位)
人口密度(2010)=192.4人/km2(全国32位)
市町村(2011.10)=9市8町0村
県庁所在地=福井市(人口=26万6796人)
県花=スイセン
県木=マツ
県鳥=ツグミ
中部地方北西部の県。北から東,南へと順次,石川県,岐阜県,滋賀県,京都府に接し,西は日本海に面する。かつての越前・若狭両国からなり,畿内と北陸を結ぶ位置を占めるため〈北陸の玄関〉と呼ばれる。風土上の境界は敦賀市東方の木ノ芽山地にあり,この木ノ芽山地以北の旧越前国を嶺北(れいほく),以南の旧若狭国を嶺南(れいなん)と呼びならわしている。ただし敦賀地方は越前に属するが,風土上は嶺南に属する。
江戸時代末期,越前には福井藩をはじめ,丸岡,大野,勝山,鯖江,敦賀(小浜藩の支藩。後に鞠山(まりやま)藩と改称。1870年小浜藩に併合)各藩のほか,広大な天領,西尾藩(三河),郡上(ぐじよう)藩(美濃)の飛地などが置かれ,若狭全域は小浜(おばま)藩の支配下にあった。1870年(明治3)越前に本保(ほんぼ)県を設けて国内の旧天領を管轄,翌年廃藩置県によって各藩も県となった。同年本保,福井,丸岡,大野,勝山の5県が統合して福井県(まもなく足羽(あすわ)県と改称),小浜・鯖江両県が合併して敦賀県となった。73年敦賀県は足羽県を併合,現福井県域を管轄したが,76年二分されて敦賀郡を除く越前は石川県に,敦賀郡と若狭は滋賀県に編入された。81年両県から分離して福井県が再置された。1958年大野郡石徹白(いとしろ)村が岐阜県に編入された。
福井県で最も重要な縄文時代の遺跡といえば,やはり草創期~前期の鳥浜貝塚(三方上中郡若狭町)であろう。淡水性貝塚で,約60m,貝層の最下部は標高-2.5mに達する。低湿地性遺跡のためヒョウタンの果皮や種子,シソやエゴマの花粉,リョクトウやゴボウの種子などの栽培植物を含む各種の自然遺物をはじめ,木杭列,丸木舟や櫂,桜樺巻きの短弓,石斧柄,漆塗櫛,木製容器,杓子,編籠,紐,縄それに糞石など貴重な有機質遺物が豊富に出土して,当時の環境の復元を可能にし,従来の縄文文化のイメージを変えた。
長泉寺山(鯖江市),原目山(はらめやま)(福井市),それに王山(おうざん)(鯖江市)はいずれも弥生時代~古墳時代の墳墓群である。このうち長泉寺山では,尾根沿いに100基以上の台状墓が密集し,多くは一つのマウンドに木棺土壙墓を1基もつ。原目山も約50基の台状墓があり,前方後円墳と推定されるものも1基ある。約40基からなる王山は,方形の周溝をめぐらし,高さ約1mの低い墳丘をもつ。いずれも弥生墳丘墓(方形周溝墓,方形台状墓)から古墳の発生の様相を知るうえで重要である。河和田玉造(かわだたまつくり)遺跡(坂井市)は古墳時代前半期のもので,工房址をはじめ,加工途中の石製品などが出土している。足羽山(あすわやま)古墳群(福井市)は全長60mの前方後円墳(柄鏡塚)や,径30~60m級の大型円墳5基を含む前期古墳と,後期の小円墳約30基から成る。北陸における畿内型古墳の初現と5世紀代の首長墓の実態を示す標式的古墳群。足羽川北岸の山塊上に展開する酒生(さこう)古墳群(福井市)の天神山7号墳(天神山古墳)は,直径50mの円墳。垂飾付耳飾など朝鮮色の濃い副葬品をもち,5世紀中葉とみられる。松岡古墳群(吉田郡永平寺町)は数基の前方後円墳と,円墳など約50基から成る。なかでも標高273mの最高所に築造された二本松山古墳は全長約75mの前方後円墳で,金銅冠2,鏡,眉庇(まびさし)付冑などを出土し,松岡3号墳は全長128mで,北陸最大の規模をもつ。横山古墳群を従える前方後円墳の神奈備山(かんなびやま)古墳(あわら市)は全長65mで,後期古墳としては北陸最大である。若狭大飯(わかさおおい)遺跡群は,大島半島から佐分利川に分布する後期の小円墳約20群170基と,古墳時代~奈良時代の製塩遺跡から成る。
歴史時代では,糞置(くそおき)荘(福井市南部)と道守(ちもり)荘(福井市西方)の両遺跡が,いずれも東大寺が越前国足羽郡に設置した奈良時代の荘園址。正倉院に開田図が残され,一部が発掘調査されている。一乗谷朝倉氏遺跡(福井市)は中世末,越前国の戦国大名として栄えた朝倉氏の居館と城下町(一乗谷)。1471年(文明3)から1573年(天正1)まで存続した。一乗谷川の両岸に沿う狭い平地に居館,武家屋敷,寺院など,また両側の広大な山間部には防御用の山城,砦,櫓(やぐら)などの遺構がよく保存されている。とくに朝倉義景の館址の発掘調査で,それまでまったく不明であった戦国大名の居館の実態が初めて明らかとなった。
→越前国 →若狭国
執筆者:狐塚 裕子
嶺北はきびしい純北陸型の風土性を示すのに対し,嶺南は穏やかで,風俗や文化の面でも京都の文化圏に属している。嶺南は若狭湾に面した東西に細長い地域である。南部は標高700m前後の山地で,滋賀県との境に野坂(湖北)山地が東西に走り,その西に丹波高地が連なる。湖北山地は多数の断層が集中する破砕帯をなし,断層谷は古くから近江と越前を結ぶ交通路として利用されてきた。破砕帯の沈水した若狭湾は典型的なリアス海岸で,湾奥に敦賀,小浜などの良港があり,敦賀平野,小浜平野などの小平野が開け,気比(けひ)の松原,三方(みかた)五湖,若狭蘇洞門(そとも)など景勝地が多く,若狭湾国定公園に指定されている。
嶺北の東半は標高1200m前後の高原性の両白山地が占め,東から北にかけては加越山地が石川県との県境をなし,東部に白山火山群に属する標高1500m前後の諸峰を含む。南の岐阜県との境には能郷白山(1617m)を最高峰とする越美(えつみ)山地が東西に走り,標高は1200m前後で,九頭竜(くずりゆう)川とその支流の開析を受け,峡谷美を呈する。中央部には越前中央山地が南北に連なり,加越・越美両山地との間には,大野盆地が開ける。両白山地と日本海岸に迫る丹生(にゆう)山地との間に福井平野が開け,越前中央山地と丹生山地の間に武生(たけふ)盆地がある。丹生山地は標高600m前後の分水嶺が海岸に迫り,谷には河岸段丘が発達する。日本海側は越前岬を中心に海岸段丘が発達,雄大な海食崖が連なり,東尋坊とともに越前加賀海岸国定公園に含まれる。
気候はいわゆる北陸型気候の標式的地域で,冬季の曇天と降雪を特徴とする。嶺南では西へ行くにつれて降雨量が減り,山陰型気候に近くなる。年降水量は福井市で2400mm前後,山地で3000mmを超え,梅雨期や台風期より冬に多いのが特徴である。積雪量は低地部で40~70cm,山地では2mを超え,積雪期間は低地部で90日,山地で120~130日に及ぶ。一年を通じて湿度が高く70~80%に達する。
農家数,耕地面積,農業生産額ともに北陸4県のうちで最も低い。耕地のほぼ8割は嶺北に分布し,全耕地面積に対し水田率は91%(1996)である。水田率の高さは自然条件によるところが大きい。農業生産の中心をなす福井平野は九頭竜川,日野川,足羽川とも扇状地の発達が悪く,低湿な沖積地が広がる。河口をせばめる加越台地と三里浜砂丘は排水の障害となり,平野の低湿性を強め,南の武生盆地も福井市域南端の分離丘陵群に排水を阻まれて低湿である。明治初年の水田率は80%余で,低地でも旧河道や自然堤防に畑作がかなり行われていたにもかかわらず,米の単作に依存するようになったのは,自給を捨て商品化を進めた結果でもある。早場米への依存も同じ理由によるもので,秋の冷湿を避けてもともと早生種を栽培していたが,関西市場で他の良質米と競合するため,端境期(はざかいき)をめざしてしだいに収穫期を早めた結果である。米作は機械化の最も進んだ部門であり,暗渠(あんきよ)排水による湿田の乾田化がそれを可能にした。しかし,それが裏作による農業周年化につながらず,労働力の全面的な農外流出を引き起こした。兼業化は1950年代後半から急速に進み,96年現在,第2種兼業農家は販売農家のうち88%を占める。日常の農作業は老人に任せ,5月の連休を利用した田植や盆休みを利用した刈入れが一般化し,請負耕作なども進んでいる。加越台地,三里浜,三方五湖周辺などに散在する畑作,果樹栽培はいずれも小規模で,三里浜のラッキョウと三方の梅がわずかに特産といえる。
水産業は沿岸および沖合漁業が中心であるが,零細漁家経営を主体とする。若狭湾およびその沖合を漁場とし,底引網,巻網,定置網などにより,スケトウダラ,アジ,イワシ,ブリ,サバ,イカなどを漁獲する。なかでも定置網によるブリ,マグロの漁獲量が大きな比重を占め,福井県水産業の特色をなす。特産としてエチゼンガニ(ズワイガニ),カレイ,ウニが知られる。また若狭湾内では真珠,カキ,ハマチの養殖が行われる。
羽二重(はぶたえ)から人絹,さらに合繊と主製品は変わったが,福井県は常に織物王国として発展してきた。1869年,福井藩はアメリカからバッタン機を購入し,近代的な織物工業育成の機運を開いた。88年,桐生から技術者を招いて羽二重の製織を学び,福井市を中心に輸出用の羽二重生産が始まった。製品はおもにアメリカに輸出され,日露戦争,第1次大戦後の好況で飛躍的に発展し,1910年代には力織機化も進んで,織物王国の地位を固め,18年には全国絹織物輸出高の60%を占めた。世界恐慌で羽二重は壊滅的打撃を受けるが,人絹織物への転換によって苦境を脱し,32年に世界初の人絹取引所を福井市に開設した。日中戦争勃発後は,戦争の拡大とともに輸入パルプに依存してきた人絹は生産制限を受け,機業は急速に沈滞した。第2次大戦後の衣料不足は生産の急速な回復をうながし,朝鮮動乱の特需ブームで一時は活況をみせたが,67-68年のなべ底景気には生産調整も追いつかぬ苦境に陥った。これを契機に合繊織物への転換をはかり,以後これが福井機業の主力となった。しかし,71年のドル・ショック,日米繊維政府間協定で輸出依存の機業は大打撃を受け,以来慢性的な不況のなかに苦悩を続けている。機業発展の基盤は何よりも安い労賃にある。近年は業者の多くは原糸メーカーや大手商社に系列化されて織賃のみを稼ぐが,多様な注文に即応できないと仕事が与えられず,不況でも常に設備更新を迫られている。一方,高能率ジェット織機によって一部製品は過剰となり,それが織賃を下げる結果となっている。比較的大規模な染色・整理加工工場と商社は福井市に集中するが,製織工場は嶺北に広く分布し,農村にも零細工場があって,かつては広くみられたさまざまな農産加工にとって代わっている。明治末に大阪から技術を導入して家内工業として始まり,大正末から盛んになった鯖江市を中心とするメガネ枠製造は,今では全国の約9割を産し,海外にも販路を広げているが,安い労賃に頼る零細手工業の本質は変わらず,大半は市街や周辺農村の家内工場で生産される。
重工業を誘致して体質改善をはかろうとした県は,1971年に三里浜に掘込み式の福井新港建設と臨海工業地域(89年テクノポート福井と改称)の埋立てが進められたが,見通しは明るいとはいえない。95年の製造品出荷額では北陸4県で第4位,電気機器が県全体の20.0%,繊維が15.2%を占めている。伝統工業としては越前市の旧今立町五箇(ごか)地区の手すき和紙,鯖江市河和田(かわだ)の越前漆器,越前市の旧武生市の鎌,包丁などの打物,小浜市の若狭塗,メノウ細工などが知られる。
京阪神に近い嶺南は原子力発電所の立地条件をみたす地域として注目されてきた。1966年の日本原子力発電敦賀発電所に始まり,関西電力美浜,大飯(おおい),高浜の各発電所の新増設が進み,96年12月現在稼働中のもの13基と異常な密集をみせ,ほかにも建設中および増設計画がある。原発サイトは敦賀半島端などいずれも岬の先端に近いところに立地している。固い花コウ岩の地盤,海水の冷却水利用,周囲に人口密集地がないなどの利点はあるが,〈陸の孤島〉といわれる生活環境から逃れたいという住民の悲願が開発の誘いに乗った結果でもある。しかし,補償金が産業振興に役立っているとはいえず,放射能汚染の不安と常に同居している。立地推進当初は絶対安全であったはずが,1995年12月に敦賀市の〈もんじゅ〉で起きたナトリウム漏出事故などたび重なる事故で,地元住民の不安が高まっている。
北陸地方の幹線の一部をなすJR北陸本線は,1962年,交通上の難関であった敦賀~今庄間に北陸トンネルが開通,同時に複線電化が成り,輸送力,所要時間の改善をみた。74年には湖西線が開通,京阪地方との間が短縮された。このほかJR小浜線(敦賀~東舞鶴),越美北線(福井~九頭竜湖)が通じる。道路はかつての北国路が国道8号線となり,嶺北を縦貫する。嶺南の幹線道路である国道27号線はかつての越前道と丹後道に従い,中京地方へは福井~大野間の158号線,これに接続する157号線がある。敦賀から京阪神へ通じる161号線は近世以前の北国路,近世の西近江路に従っている。米原~新潟間の北陸自動車道も88年全通した。また古代以来の古い歴史をもつ敦賀港は,新港の建設,整備が進められている。交通機関の近代化によって時間的距離が短縮され始めると,〈北陸の玄関〉としての地の利は失われ,しだいに通過地と変わってきた。とくに近年の高速化にともなってその感は深い。北陸に属しながら,近畿圏・中部圏の付属的立場に甘んじなければならないのが現状である。
嶺北と嶺南を隔てる木ノ芽山地は,現在こそ北陸トンネルの開通や国道の改修によって改善されたものの,古くは両地域の交通を阻む大きな障害であった。このため両地域の物資や人間の交流は少なく,それぞれ独立した文化圏を形成してきた。
(1)嶺北 福井,越前,大野,勝山,鯖江,坂井,あわらの7市と吉田,今立(いまだて),南条,丹生の4郡を含み,県面積の74%,県人口の81.5%を占め,人口密度も嶺南の141人/km2に対し217人/km2(1995)と高い。中心をなす福井市は柴田勝家の北ノ庄に始まる新興の城下町であるが,嶺北の核心をなす福井平野の中心に位置し,明治以後は県庁所在地としてあらゆる面で県の中心的位置を占めている。羽二重以来の機業の発展は経済力の基盤となり,機械,化学など関連工業や産元商社に代表される商業をも発展させた。高速交通時代に入って今やその影響力は広く嶺北全域を覆っている。従来,旧武生市を中心とする嶺北南部と大野・勝山両市を中心とする奥越は独立の地域として扱われてきた。古代の国府の所在地である旧武生市は中世以降も重要性を持続し,大型ショッピングセンターもできて今も盆地内と南条・今立両郡にかなりの商圏をもつ。また旧武生市は電気機器工業が盛んで,県内で福井市を抜いて第1位(1995)の製造品出荷額をあげている。近世城下町の大野市と勝山市はともに機業の町であるが,両市とも1950年代後半から95年現在も人口流出に悩み,現住者の多くは福井市へ通勤する。
(2)嶺南 小浜・敦賀両市と三方,三方上中,大飯の3郡を含むが,平野が狭小で,小地域に分断され,また幹線交通路からはずれていたため,経済的・文化的に遅れをとらざるをえなかった。嶺北の福井市に相当する中心はない。港湾都市敦賀は第2次大戦後に立地したセメント,合板などの工業も後背地が狭いため発展は望めない。旧郡全体の市域と美浜町を勢力圏とする。若狭の中心である旧城下町の小浜市は歴史の古い港が漁港と化し,沈滞を続けてきたが,1960年ころから周辺に家庭電気機器,縫製業が立地し,大飯郡大飯町(現,大飯郡おおい町),三方郡三方町(現,三方上中郡若狭町)と遠敷郡の上中町(現,三方上中郡若狭町),名田庄村(現,大飯郡おおい町)を勢力圏としていた。
執筆者:島田 正彦
福井県北西部に位置する県庁所在都市。2006年2月旧福井市が清水(しみず)町,美山(みやま)町と越廼(こしの)村を編入して成立した。人口26万6796(2010)。
福井市南西端の旧村。旧丹生(にゆう)郡所属。人口1629(2005)。日本海に面した農漁村で,村域の大部分は丹生山地に属する山地が占める。1952年,漁業を基盤とする越廼村と農業を基盤とする下岬村が合体して成立。蒲生・茱崎(ぐみざき)両湾を中心として漁業が行われ,ウニ,エチゼンガニの特産がある。南部の居倉から南隣の越前町にかけての沿岸地域はスイセンの日本三大産地の一つで,越前スイセンとして中京・関西方面に出荷される。耕地に乏しく沿岸や山間部に千枚田がみられる。越前加賀海岸国定公園の中にあって観光と組み合わせた農漁業に転換しつつある。55年自然休養村に指定された。大味(おおみ)の法雲寺にある親鸞書写の尊号真像銘文は重要文化財。
福井市南部の旧町,旧丹生郡所属。人口1万0353(2005)。旧福井市の南西に隣接し,西部は丹生山地北東部の山地が占め,東部は日野川沿いに低地が開ける。日野川,志津川の肥沃なはんらん平野は古くからの米作地帯で,農業が盛んであるが,近年は宅地造成が進み,旧福井市のベッドタウンとなっている。西部山麓ではブドウ,クリなどの栽培が行われる。菅笠の特産があり,繊維,木材の工場も立地する。大森の賀茂神社に4年目ごとに奉納される睦月神事は重要無形民俗文化財に指定されている。
執筆者:上田 雅子
福井市中西部,福井平野の中央に位置する旧市で,県庁所在地。1889年市制。人口25万2220(2005)。古くは北ノ庄と称した。現市街の形成は1575年(天正3)柴田勝家が足羽(あすわ)川北岸の自然堤防上に北ノ庄城(本丸跡は現在の柴田神社といわれる)を築城したことに始まるが,1600年(慶長5)に入り結城秀康が城を改築して現在の県庁のところに本丸を移し,城下町を拡大した。大名ロータリー周辺の現在の中心街はもと城郭内で,濠を幾重にもめぐらした堅固な構えであった。北陸本線福井駅(1896)と駅前大通り(昭和初期)はもとの百間堀を埋めたもので,さらに第2次世界大戦中の空襲と1948年の福井地震による壊滅的被災,およびその後の近代都市としての復興により城下町の面影はほとんどない。1881年の福井県成立以来県都として,また福井機業の中心として発展し,今も染色・整理加工や取引機能が集中する。1972年に造成された臨海工業地帯は,89年テクノポート福井と改称され,1988年には北陸自動車道が全通し,繊維,機械,化学,精密機器,食品などの工業が盛んで,駅前の中心商店街も活況をみせている。足羽川南岸は近世には,足羽山麓をめぐる北陸街道沿いに町屋,寺院,下士屋敷があるほかは田園地帯であったが,昭和初期から紡績,染色などの大工場が進出した。また市域南東部の山間にある一乗谷は戦国大名朝倉氏の本拠であり,その遺構は発掘・復元されて国の特別史跡となっている。JR北陸本線と越美北線の分岐点の福井駅を起点として福井鉄道福武線(1925)が武生,鯖江方面へ,京福電鉄越前本線(1913)が勝山方面へ,同三国芦原(みくにあわら)線(1928)が芦原温泉方面へ通じる。なお現在京福電鉄はえちぜん鉄道,越前本線は勝山永平寺線となっている。
執筆者:島田 正彦
初め北ノ庄といい,1575年柴田勝家が入り,朝倉氏の故地一乗谷をはじめ領内各地から寺社や商工人を移住させ,城下町を建設して発展した。町の規模は安土の2倍,天守は九層と伝える。1600年結城秀康が入封し,地子を免除するなどして一段と整備・拡充された。24年(寛永1)襲封した松平忠昌が,北ノ庄の北が敗北に通じることを忌んで福居と改め,元禄(1688-1704)ころから福井と称するようになった。本丸を中心に四重に設けられた濠の内側に武家屋敷,外濠の西側と北側一帯に町家,その外側に寺社と下級士卒の長屋が置かれ,町屋の中央を北陸街道が北上し,宿駅が置かれていた。領知目録での城下の範囲は,福井庄町,石場町,石場畑方,木田町,松本町,三橋村,福井庄町外,城橋町であった。城下を西流する足羽川を境に南北に分け,橋南・橋北の称もある。町数と戸口は,慶長ころ126町,5190軒,2万5331人と伝え,1713年(正徳3)には164町が11の町組に編成され,町地方を含めて総家数5488軒,うち役家2829軒,地名子908軒,総人数2万1393人であった。有力町人に橘,慶松,金屋などが知られる。町奉行の支配に属し,町年寄が2人,町ごとに庄屋が置かれた。木戸が多いのも特徴とされ,城下の南口に惣木戸,北口に大木戸を設けたほか町ごとにも置かれ,木戸数195ヵ所,夜番所216ヵ所を数えた。足羽川には九十九(つくも)橋が架かり,この北詰に常夜灯と高札場が置かれ,里程を計る起点にもされた。橋南・橋北の称もこの橋にちなむ。また芝原上水といって九頭竜川から取水する上水道が,早く秀康のころには設けられ,城下の飲料水や周辺の灌漑に利用され,上水奉行が管理した。
城下には大火が多く,1669年(寛文9)の大火では3500戸以上を焼き,天守閣も焼け落ち,以後再建されなかった。こののち500戸以上焼失の大火は10件を数える。大規模な打ちこわしは,1748年(寛延1)と68年(明和5)に起こっており,蓑虫騒動とも呼ばれた。とくに後者は御用金賦課に端を発し,最盛時には2万の民衆が城下の御用商人などを打ちこわしたが,一揆勢は自ら五ヵ条の掟を定めて規律正しく行動し,要求の過半を認めさせた。主産業は笏谷(しやくだに)石と奉書紬である。越前青石とも呼ばれた笏谷石は,足羽山一帯に産出し,加工が簡単で熱にも強いため,領内の石造物に広く利用され,領外にも移出された。絹織物は朝倉時代に橘屋の軽物産がみられるが,江戸時代中期以降奉書紬の名で知られ,ことに下級士卒の内職として発展し,幕末にはバッタンを導入して産額も1万疋に及んだ。
執筆者:隼田 嘉彦
福井市東部の旧町。旧足羽(あすわ)郡所属。人口4942(2005)。足羽川中流域に位置し,足羽川は当町内で西に向きを変えて福井平野に出る。同川本・支流沿いに低地があるほかは町域の大部分は越前中央山地におおわれる。福井平野と大野盆地に挟まれ,越前と美濃を結ぶ美濃街道(現,国道158号線)が東西に貫通する。農林業が基幹産業で,杉の良材を産し,〈美山キュウリ〉〈河内赤カブラ〉は特産として知られる。養鶏団地もあり,製材などの工場も立地する。市波にある浄土真宗本願寺派本向寺の5世了顕は,1474年(文明6)吉崎御坊の大火の際,親鸞真筆の教典を守って焼死したことで知られる。真宗高田派の称名寺,聖徳寺など古寺が多く,河内の住吉神社で行われる〈じじぐれ祭〉は著名。1961年の第2室戸台風,63年の豪雪により甚大な被害を受けたが,旧福井市と大野市の経済圏内にあって発展している。JR越美北線が通じる。
執筆者:上田 雅子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…北陸道に属する大国(《延喜式》)。現在の福井県のうち南西部の旧若狭国を除いた北東部を占める。
【古代】
北陸地方は古くは越(こし)(高志)とよばれ,越前に当たる地域には角鹿(つぬが)国造,三国国造がいた。…
…面積=4188.43km2(全国34位)人口(1995)=82万6996人(全国44位)人口密度(1995)=197人/km2(全国34位)市町村(1997.4)=7市22町6村県庁所在地=福井市(人口=25万5604人)県花=ニホンズイセン 県木=マツ 県鳥=ツグミ中部地方北西部の県。北から東,南へと順次,石川県,岐阜県,滋賀県,京都府に接し,西は日本海に面する。…
※「福井」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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