福井(読み)ふくい

精選版 日本国語大辞典 「福井」の意味・読み・例文・類語

ふくい フクゐ【福井】

[一] 福井県北部の地名。県庁所在地福井平野の中央部を占め、足羽(あすわ)川が貫流。古くは北ノ庄と称し、江戸時代に福居、福井と改称。柴田勝家の北ノ庄城(福井城)築城にはじまり、江戸時代は松平氏の城下町として繁栄。明治以降は絹織物工業で栄え、現在も繊維工業が主。明治二二年(一八八九)市制。
[二] 「ふくいけん(福井県)」の略。

ふくい フクゐ【福井】

姓氏の一つ。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「福井」の意味・読み・例文・類語

ふくい【福井】[地名]

中部地方北西部の県。日本海に面する。越前国若狭国にあたる。人口80.6万(2010)。
福井県北部の市。県庁所在地。江戸時代は松平氏の城下町。合繊織物や機械・眼鏡などの工業が盛ん。一乗谷朝倉氏遺跡がある。平成18年(2006)2月、美山町・越廼こしの村・清水町を編入。人口26.7万(2010)。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「福井」の意味・わかりやすい解説

福井[県] (ふくい)

基本情報
面積=4189.83km2(全国34位) 
人口(2010)=80万6314人(全国43位) 
人口密度(2010)=192.4人/km2(全国32位) 
市町村(2011.10)=9市8町0村 
県庁所在地=福井市(人口=26万6796人) 
県花=スイセン 
県木=マツ 
県鳥=ツグミ

中部地方北西部の県。北から東,南へと順次,石川県,岐阜県,滋賀県,京都府に接し,西は日本海に面する。かつての越前・若狭両国からなり,畿内と北陸を結ぶ位置を占めるため〈北陸の玄関〉と呼ばれる。風土上の境界は敦賀市東方の木ノ芽山地にあり,この木ノ芽山地以北の旧越前国を嶺北(れいほく),以南の旧若狭国を嶺南(れいなん)と呼びならわしている。ただし敦賀地方は越前に属するが,風土上は嶺南に属する。

江戸時代末期,越前には福井藩をはじめ,丸岡,大野,勝山,鯖江,敦賀(小浜藩の支藩。後に鞠山(まりやま)藩と改称。1870年小浜藩に併合)各藩のほか,広大な天領,西尾藩(三河),郡上(ぐじよう)藩(美濃)の飛地などが置かれ,若狭全域は小浜(おばま)藩の支配下にあった。1870年(明治3)越前に本保(ほんぼ)県を設けて国内の旧天領を管轄,翌年廃藩置県によって各藩も県となった。同年本保,福井,丸岡,大野,勝山の5県が統合して福井県(まもなく足羽(あすわ)県と改称),小浜・鯖江両県が合併して敦賀県となった。73年敦賀県は足羽県を併合,現福井県域を管轄したが,76年二分されて敦賀郡を除く越前は石川県に,敦賀郡と若狭は滋賀県に編入された。81年両県から分離して福井県が再置された。1958年大野郡石徹白(いとしろ)村が岐阜県に編入された。

福井県で最も重要な縄文時代の遺跡といえば,やはり草創期~前期の鳥浜貝塚(三方上中郡若狭町)であろう。淡水性貝塚で,約60m,貝層の最下部は標高-2.5mに達する。低湿地性遺跡のためヒョウタンの果皮や種子,シソやエゴマの花粉,リョクトウやゴボウの種子などの栽培植物を含む各種の自然遺物をはじめ,木杭列,丸木舟や櫂,桜樺巻きの短弓,石斧柄,漆塗櫛,木製容器,杓子,編籠,紐,縄それに糞石など貴重な有機質遺物が豊富に出土して,当時の環境の復元を可能にし,従来の縄文文化のイメージを変えた。

 長泉寺山(鯖江市),原目山(はらめやま)(福井市),それに王山(おうざん)(鯖江市)はいずれも弥生時代~古墳時代の墳墓群である。このうち長泉寺山では,尾根沿いに100基以上の台状墓が密集し,多くは一つのマウンドに木棺土壙墓を1基もつ。原目山も約50基の台状墓があり,前方後円墳と推定されるものも1基ある。約40基からなる王山は,方形の周溝をめぐらし,高さ約1mの低い墳丘をもつ。いずれも弥生墳丘墓(方形周溝墓,方形台状墓)から古墳の発生の様相を知るうえで重要である。河和田玉造(かわだたまつくり)遺跡(坂井市)は古墳時代前半期のもので,工房址をはじめ,加工途中の石製品などが出土している。足羽山(あすわやま)古墳群(福井市)は全長60mの前方後円墳(柄鏡塚)や,径30~60m級の大型円墳5基を含む前期古墳と,後期の小円墳約30基から成る。北陸における畿内型古墳の初現と5世紀代の首長墓の実態を示す標式的古墳群。足羽川北岸の山塊上に展開する酒生(さこう)古墳群(福井市)の天神山7号墳(天神山古墳)は,直径50mの円墳。垂飾付耳飾など朝鮮色の濃い副葬品をもち,5世紀中葉とみられる。松岡古墳群(吉田郡永平寺町)は数基の前方後円墳と,円墳など約50基から成る。なかでも標高273mの最高所に築造された二本松山古墳は全長約75mの前方後円墳で,金銅冠2,鏡,眉庇(まびさし)付冑などを出土し,松岡3号墳は全長128mで,北陸最大の規模をもつ。横山古墳群を従える前方後円墳の神奈備山(かんなびやま)古墳(あわら市)は全長65mで,後期古墳としては北陸最大である。若狭大飯(わかさおおい)遺跡群は,大島半島から佐分利川に分布する後期の小円墳約20群170基と,古墳時代~奈良時代の製塩遺跡から成る。

 歴史時代では,糞置(くそおき)荘(福井市南部)と道守(ちもり)荘(福井市西方)の両遺跡が,いずれも東大寺が越前国足羽郡に設置した奈良時代の荘園址。正倉院に開田図が残され,一部が発掘調査されている。一乗谷朝倉氏遺跡(福井市)は中世末,越前国の戦国大名として栄えた朝倉氏の居館と城下町(一乗谷)。1471年(文明3)から1573年(天正1)まで存続した。一乗谷川の両岸に沿う狭い平地に居館,武家屋敷,寺院など,また両側の広大な山間部には防御用の山城,砦,櫓(やぐら)などの遺構がよく保存されている。とくに朝倉義景の館址の発掘調査で,それまでまったく不明であった戦国大名の居館の実態が初めて明らかとなった。
越前国 →若狭国
執筆者:

嶺北はきびしい純北陸型の風土性を示すのに対し,嶺南は穏やかで,風俗や文化の面でも京都の文化圏に属している。嶺南は若狭湾に面した東西に細長い地域である。南部は標高700m前後の山地で,滋賀県との境に野坂(湖北)山地が東西に走り,その西に丹波高地が連なる。湖北山地は多数の断層が集中する破砕帯をなし,断層谷は古くから近江と越前を結ぶ交通路として利用されてきた。破砕帯の沈水した若狭湾は典型的なリアス海岸で,湾奥に敦賀,小浜などの良港があり,敦賀平野,小浜平野などの小平野が開け,気比(けひ)の松原,三方(みかた)五湖,若狭蘇洞門(そとも)など景勝地が多く,若狭湾国定公園に指定されている。

 嶺北の東半は標高1200m前後の高原性の両白山地が占め,東から北にかけては加越山地が石川県との県境をなし,東部に白山火山群に属する標高1500m前後の諸峰を含む。南の岐阜県との境には能郷白山(1617m)を最高峰とする越美(えつみ)山地が東西に走り,標高は1200m前後で,九頭竜(くずりゆう)川とその支流の開析を受け,峡谷美を呈する。中央部には越前中央山地が南北に連なり,加越・越美両山地との間には,大野盆地が開ける。両白山地と日本海岸に迫る丹生(にゆう)山地との間に福井平野が開け,越前中央山地と丹生山地の間に武生(たけふ)盆地がある。丹生山地は標高600m前後の分水嶺が海岸に迫り,谷には河岸段丘が発達する。日本海側は越前岬を中心に海岸段丘が発達,雄大な海食崖が連なり,東尋坊とともに越前加賀海岸国定公園に含まれる。

 気候はいわゆる北陸型気候の標式的地域で,冬季の曇天と降雪を特徴とする。嶺南では西へ行くにつれて降雨量が減り,山陰型気候に近くなる。年降水量は福井市で2400mm前後,山地で3000mmを超え,梅雨期や台風期より冬に多いのが特徴である。積雪量は低地部で40~70cm,山地では2mを超え,積雪期間は低地部で90日,山地で120~130日に及ぶ。一年を通じて湿度が高く70~80%に達する。

農家数,耕地面積,農業生産額ともに北陸4県のうちで最も低い。耕地のほぼ8割は嶺北に分布し,全耕地面積に対し水田率は91%(1996)である。水田率の高さは自然条件によるところが大きい。農業生産の中心をなす福井平野は九頭竜川,日野川,足羽川とも扇状地の発達が悪く,低湿な沖積地が広がる。河口をせばめる加越台地と三里浜砂丘は排水の障害となり,平野の低湿性を強め,南の武生盆地も福井市域南端の分離丘陵群に排水を阻まれて低湿である。明治初年の水田率は80%余で,低地でも旧河道や自然堤防に畑作がかなり行われていたにもかかわらず,米の単作に依存するようになったのは,自給を捨て商品化を進めた結果でもある。早場米への依存も同じ理由によるもので,秋の冷湿を避けてもともと早生種を栽培していたが,関西市場で他の良質米と競合するため,端境期(はざかいき)をめざしてしだいに収穫期を早めた結果である。米作は機械化の最も進んだ部門であり,暗渠(あんきよ)排水による湿田の乾田化がそれを可能にした。しかし,それが裏作による農業周年化につながらず,労働力の全面的な農外流出を引き起こした。兼業化は1950年代後半から急速に進み,96年現在,第2種兼業農家は販売農家のうち88%を占める。日常の農作業は老人に任せ,5月の連休を利用した田植や盆休みを利用した刈入れが一般化し,請負耕作なども進んでいる。加越台地,三里浜,三方五湖周辺などに散在する畑作,果樹栽培はいずれも小規模で,三里浜のラッキョウと三方の梅がわずかに特産といえる。

 水産業は沿岸および沖合漁業が中心であるが,零細漁家経営を主体とする。若狭湾およびその沖合を漁場とし,底引網,巻網,定置網などにより,スケトウダラ,アジ,イワシ,ブリ,サバ,イカなどを漁獲する。なかでも定置網によるブリ,マグロの漁獲量が大きな比重を占め,福井県水産業の特色をなす。特産としてエチゼンガニズワイガニ),カレイ,ウニが知られる。また若狭湾内では真珠,カキ,ハマチの養殖が行われる。

羽二重(はぶたえ)から人絹,さらに合繊と主製品は変わったが,福井県は常に織物王国として発展してきた。1869年,福井藩はアメリカからバッタン機を購入し,近代的な織物工業育成の機運を開いた。88年,桐生から技術者を招いて羽二重の製織を学び,福井市を中心に輸出用の羽二重生産が始まった。製品はおもにアメリカに輸出され,日露戦争,第1次大戦後の好況で飛躍的に発展し,1910年代には力織機化も進んで,織物王国の地位を固め,18年には全国絹織物輸出高の60%を占めた。世界恐慌で羽二重は壊滅的打撃を受けるが,人絹織物への転換によって苦境を脱し,32年に世界初の人絹取引所を福井市に開設した。日中戦争勃発後は,戦争の拡大とともに輸入パルプに依存してきた人絹は生産制限を受け,機業は急速に沈滞した。第2次大戦後の衣料不足は生産の急速な回復をうながし,朝鮮動乱の特需ブームで一時は活況をみせたが,67-68年のなべ底景気には生産調整も追いつかぬ苦境に陥った。これを契機に合繊織物への転換をはかり,以後これが福井機業の主力となった。しかし,71年のドル・ショック,日米繊維政府間協定で輸出依存の機業は大打撃を受け,以来慢性的な不況のなかに苦悩を続けている。機業発展の基盤は何よりも安い労賃にある。近年は業者の多くは原糸メーカーや大手商社に系列化されて織賃のみを稼ぐが,多様な注文に即応できないと仕事が与えられず,不況でも常に設備更新を迫られている。一方,高能率ジェット織機によって一部製品は過剰となり,それが織賃を下げる結果となっている。比較的大規模な染色・整理加工工場と商社は福井市に集中するが,製織工場は嶺北に広く分布し,農村にも零細工場があって,かつては広くみられたさまざまな農産加工にとって代わっている。明治末に大阪から技術を導入して家内工業として始まり,大正末から盛んになった鯖江市を中心とするメガネ枠製造は,今では全国の約9割を産し,海外にも販路を広げているが,安い労賃に頼る零細手工業の本質は変わらず,大半は市街や周辺農村の家内工場で生産される。

 重工業を誘致して体質改善をはかろうとした県は,1971年に三里浜に掘込み式の福井新港建設と臨海工業地域(89年テクノポート福井と改称)の埋立てが進められたが,見通しは明るいとはいえない。95年の製造品出荷額では北陸4県で第4位,電気機器が県全体の20.0%,繊維が15.2%を占めている。伝統工業としては越前市の旧今立町五箇(ごか)地区の手すき和紙,鯖江市河和田(かわだ)の越前漆器,越前市の旧武生市の鎌,包丁などの打物,小浜市の若狭塗,メノウ細工などが知られる。

京阪神に近い嶺南は原子力発電所の立地条件をみたす地域として注目されてきた。1966年の日本原子力発電敦賀発電所に始まり,関西電力美浜,大飯(おおい),高浜の各発電所の新増設が進み,96年12月現在稼働中のもの13基と異常な密集をみせ,ほかにも建設中および増設計画がある。原発サイトは敦賀半島端などいずれも岬の先端に近いところに立地している。固い花コウ岩の地盤,海水の冷却水利用,周囲に人口密集地がないなどの利点はあるが,〈陸の孤島〉といわれる生活環境から逃れたいという住民の悲願が開発の誘いに乗った結果でもある。しかし,補償金が産業振興に役立っているとはいえず,放射能汚染の不安と常に同居している。立地推進当初は絶対安全であったはずが,1995年12月に敦賀市の〈もんじゅ〉で起きたナトリウム漏出事故などたび重なる事故で,地元住民の不安が高まっている。

北陸地方の幹線の一部をなすJR北陸本線は,1962年,交通上の難関であった敦賀~今庄間に北陸トンネルが開通,同時に複線電化が成り,輸送力,所要時間の改善をみた。74年には湖西線が開通,京阪地方との間が短縮された。このほかJR小浜線(敦賀~東舞鶴),越美北線(福井~九頭竜湖)が通じる。道路はかつての北国路が国道8号線となり,嶺北を縦貫する。嶺南の幹線道路である国道27号線はかつての越前道と丹後道に従い,中京地方へは福井~大野間の158号線,これに接続する157号線がある。敦賀から京阪神へ通じる161号線は近世以前の北国路,近世の西近江路に従っている。米原~新潟間の北陸自動車道も88年全通した。また古代以来の古い歴史をもつ敦賀港は,新港の建設,整備が進められている。交通機関の近代化によって時間的距離が短縮され始めると,〈北陸の玄関〉としての地の利は失われ,しだいに通過地と変わってきた。とくに近年の高速化にともなってその感は深い。北陸に属しながら,近畿圏・中部圏の付属的立場に甘んじなければならないのが現状である。

嶺北と嶺南を隔てる木ノ芽山地は,現在こそ北陸トンネルの開通や国道の改修によって改善されたものの,古くは両地域の交通を阻む大きな障害であった。このため両地域の物資や人間の交流は少なく,それぞれ独立した文化圏を形成してきた。

(1)嶺北 福井,越前,大野,勝山,鯖江,坂井,あわらの7市と吉田,今立(いまだて),南条,丹生の4郡を含み,県面積の74%,県人口の81.5%を占め,人口密度も嶺南の141人/km2に対し217人/km2(1995)と高い。中心をなす福井市は柴田勝家の北ノ庄に始まる新興の城下町であるが,嶺北の核心をなす福井平野の中心に位置し,明治以後は県庁所在地としてあらゆる面で県の中心的位置を占めている。羽二重以来の機業の発展は経済力の基盤となり,機械,化学など関連工業や産元商社に代表される商業をも発展させた。高速交通時代に入って今やその影響力は広く嶺北全域を覆っている。従来,旧武生市を中心とする嶺北南部と大野・勝山両市を中心とする奥越は独立の地域として扱われてきた。古代の国府の所在地である旧武生市は中世以降も重要性を持続し,大型ショッピングセンターもできて今も盆地内と南条・今立両郡にかなりの商圏をもつ。また旧武生市は電気機器工業が盛んで,県内で福井市を抜いて第1位(1995)の製造品出荷額をあげている。近世城下町の大野市と勝山市はともに機業の町であるが,両市とも1950年代後半から95年現在も人口流出に悩み,現住者の多くは福井市へ通勤する。

(2)嶺南 小浜・敦賀両市と三方,三方上中,大飯の3郡を含むが,平野が狭小で,小地域に分断され,また幹線交通路からはずれていたため,経済的・文化的に遅れをとらざるをえなかった。嶺北の福井市に相当する中心はない。港湾都市敦賀は第2次大戦後に立地したセメント,合板などの工業も後背地が狭いため発展は望めない。旧郡全体の市域と美浜町を勢力圏とする。若狭の中心である旧城下町の小浜市は歴史の古い港が漁港と化し,沈滞を続けてきたが,1960年ころから周辺に家庭電気機器,縫製業が立地し,大飯郡大飯町(現,大飯郡おおい町),三方郡三方町(現,三方上中郡若狭町)と遠敷郡の上中町(現,三方上中郡若狭町),名田庄村(現,大飯郡おおい町)を勢力圏としていた。
執筆者:


福井[市] (ふくい)

福井県北西部に位置する県庁所在都市。2006年2月旧福井市が清水(しみず)町,美山(みやま)町と越廼(こしの)村を編入して成立した。人口26万6796(2010)。

福井市南西端の旧村。旧丹生(にゆう)郡所属。人口1629(2005)。日本海に面した農漁村で,村域の大部分は丹生山地に属する山地が占める。1952年,漁業を基盤とする越廼村と農業を基盤とする下岬村が合体して成立。蒲生・茱崎(ぐみざき)両湾を中心として漁業が行われ,ウニ,エチゼンガニの特産がある。南部の居倉から南隣の越前町にかけての沿岸地域はスイセンの日本三大産地の一つで,越前スイセンとして中京・関西方面に出荷される。耕地に乏しく沿岸や山間部に千枚田がみられる。越前加賀海岸国定公園の中にあって観光と組み合わせた農漁業に転換しつつある。55年自然休養村に指定された。大味(おおみ)の法雲寺にある親鸞書写の尊号真像銘文は重要文化財。

福井市南部の旧町,旧丹生郡所属。人口1万0353(2005)。旧福井市の南西に隣接し,西部は丹生山地北東部の山地が占め,東部は日野川沿いに低地が開ける。日野川,志津川の肥沃なはんらん平野は古くからの米作地帯で,農業が盛んであるが,近年は宅地造成が進み,旧福井市のベッドタウンとなっている。西部山麓ではブドウ,クリなどの栽培が行われる。菅笠の特産があり,繊維,木材の工場も立地する。大森の賀茂神社に4年目ごとに奉納される睦月神事は重要無形民俗文化財に指定されている。
執筆者:

福井市中西部,福井平野の中央に位置する旧市で,県庁所在地。1889年市制。人口25万2220(2005)。古くは北ノ庄と称した。現市街の形成は1575年(天正3)柴田勝家が足羽(あすわ)川北岸の自然堤防上に北ノ庄城(本丸跡は現在の柴田神社といわれる)を築城したことに始まるが,1600年(慶長5)に入り結城秀康が城を改築して現在の県庁のところに本丸を移し,城下町を拡大した。大名ロータリー周辺の現在の中心街はもと城郭内で,濠を幾重にもめぐらした堅固な構えであった。北陸本線福井駅(1896)と駅前大通り(昭和初期)はもとの百間堀を埋めたもので,さらに第2次世界大戦中の空襲と1948年の福井地震による壊滅的被災,およびその後の近代都市としての復興により城下町の面影はほとんどない。1881年の福井県成立以来県都として,また福井機業の中心として発展し,今も染色・整理加工や取引機能が集中する。1972年に造成された臨海工業地帯は,89年テクノポート福井と改称され,1988年には北陸自動車道が全通し,繊維,機械,化学,精密機器,食品などの工業が盛んで,駅前の中心商店街も活況をみせている。足羽川南岸は近世には,足羽山麓をめぐる北陸街道沿いに町屋,寺院,下士屋敷があるほかは田園地帯であったが,昭和初期から紡績,染色などの大工場が進出した。また市域南東部の山間にある一乗谷は戦国大名朝倉氏の本拠であり,その遺構は発掘・復元されて国の特別史跡となっている。JR北陸本線と越美北線の分岐点の福井駅を起点として福井鉄道福武線(1925)が武生,鯖江方面へ,京福電鉄越前本線(1913)が勝山方面へ,同三国芦原(みくにあわら)線(1928)が芦原温泉方面へ通じる。なお現在京福電鉄はえちぜん鉄道,越前本線は勝山永平寺線となっている。
執筆者:

初め北ノ庄といい,1575年柴田勝家が入り,朝倉氏の故地一乗谷をはじめ領内各地から寺社や商工人を移住させ,城下町を建設して発展した。町の規模は安土の2倍,天守は九層と伝える。1600年結城秀康が入封し,地子を免除するなどして一段と整備・拡充された。24年(寛永1)襲封した松平忠昌が,北ノ庄の北が敗北に通じることを忌んで福居と改め,元禄(1688-1704)ころから福井と称するようになった。本丸を中心に四重に設けられた濠の内側に武家屋敷,外濠の西側と北側一帯に町家,その外側に寺社と下級士卒の長屋が置かれ,町屋の中央を北陸街道が北上し,宿駅が置かれていた。領知目録での城下の範囲は,福井庄町,石場町,石場畑方,木田町,松本町,三橋村,福井庄町外,城橋町であった。城下を西流する足羽川を境に南北に分け,橋南・橋北の称もある。町数と戸口は,慶長ころ126町,5190軒,2万5331人と伝え,1713年(正徳3)には164町が11の町組に編成され,町地方を含めて総家数5488軒,うち役家2829軒,地名子908軒,総人数2万1393人であった。有力町人に橘,慶松,金屋などが知られる。町奉行の支配に属し,町年寄が2人,町ごとに庄屋が置かれた。木戸が多いのも特徴とされ,城下の南口に惣木戸,北口に大木戸を設けたほか町ごとにも置かれ,木戸数195ヵ所,夜番所216ヵ所を数えた。足羽川には九十九(つくも)橋が架かり,この北詰に常夜灯と高札場が置かれ,里程を計る起点にもされた。橋南・橋北の称もこの橋にちなむ。また芝原上水といって九頭竜川から取水する上水道が,早く秀康のころには設けられ,城下の飲料水や周辺の灌漑に利用され,上水奉行が管理した。

 城下には大火が多く,1669年(寛文9)の大火では3500戸以上を焼き,天守閣も焼け落ち,以後再建されなかった。こののち500戸以上焼失の大火は10件を数える。大規模な打ちこわしは,1748年(寛延1)と68年(明和5)に起こっており,蓑虫騒動とも呼ばれた。とくに後者は御用金賦課に端を発し,最盛時には2万の民衆が城下の御用商人などを打ちこわしたが,一揆勢は自ら五ヵ条の掟を定めて規律正しく行動し,要求の過半を認めさせた。主産業は笏谷(しやくだに)石と奉書紬である。越前青石とも呼ばれた笏谷石は,足羽山一帯に産出し,加工が簡単で熱にも強いため,領内の石造物に広く利用され,領外にも移出された。絹織物は朝倉時代に橘屋の軽物産がみられるが,江戸時代中期以降奉書紬の名で知られ,ことに下級士卒の内職として発展し,幕末にはバッタンを導入して産額も1万疋に及んだ。
執筆者:

福井市東部の旧町。旧足羽(あすわ)郡所属。人口4942(2005)。足羽川中流域に位置し,足羽川は当町内で西に向きを変えて福井平野に出る。同川本・支流沿いに低地があるほかは町域の大部分は越前中央山地におおわれる。福井平野と大野盆地に挟まれ,越前と美濃を結ぶ美濃街道(現,国道158号線)が東西に貫通する。農林業が基幹産業で,杉の良材を産し,〈美山キュウリ〉〈河内赤カブラ〉は特産として知られる。養鶏団地もあり,製材などの工場も立地する。市波にある浄土真宗本願寺派本向寺の5世了顕は,1474年(文明6)吉崎御坊の大火の際,親鸞真筆の教典を守って焼死したことで知られる。真宗高田派の称名寺,聖徳寺など古寺が多く,河内の住吉神社で行われる〈じじぐれ祭〉は著名。1961年の第2室戸台風,63年の豪雪により甚大な被害を受けたが,旧福井市と大野市の経済圏内にあって発展している。JR越美北線が通じる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の福井の言及

【越前国】より

…北陸道に属する大国(《延喜式》)。現在の福井県のうち南西部の旧若狭国を除いた北東部を占める。
【古代】
 北陸地方は古くは(こし)(高志)とよばれ,越前に当たる地域には角鹿(つぬが)国造,三国国造がいた。…

【福井[県]】より

…面積=4188.43km2(全国34位)人口(1995)=82万6996人(全国44位)人口密度(1995)=197人/km2(全国34位)市町村(1997.4)=7市22町6村県庁所在地=福井市(人口=25万5604人)県花=ニホンズイセン 県木=マツ 県鳥=ツグミ中部地方北西部の県。北から東,南へと順次,石川県,岐阜県,滋賀県,京都府に接し,西は日本海に面する。…

※「福井」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android