多度郡(読み)たどぐん

日本歴史地名大系 「多度郡」の解説

多度郡
たどぐん

讃岐国の北西部に位置し、東から南東にかけ那珂なか郡、南西から西にかけて三野みの郡と接し、北は瀬戸内海に面する。現仲多度なかたど多度津たどつ町と善通寺市の、三豊みとよ郡三野町の東部西半分を郡域とした。

〔古代〕

天平一七年(七四五)九月二〇日の智識優婆塞貢進文(正倉院文書)に「大伴部田次年廿一 讃岐国多度郡藤原郷戸主大伴部豊国戸口」とある。「和名抄」記載の管郷は生野いかの良田よしだ葛原かつらはら三井みい吉原よしはら弘田ひろた仲村なかむらの七郷で、下郡である。葛原郷は古くは藤原ふじわら郷とよんだ。「続日本紀」延暦八年(七八九)五月一九日条に、播磨国大興寺の賤若女はもと多度郡藤原郷の女で、慶雲元年(七〇四)に偽って婢として売られたとある。この記事から慶雲元年当時藤原郷が成立していたとみるなら、多度郡もまた成立していたとすることができるであろう。「三代実録」貞観三年(八六一)一一月一一日条に、多度郡の人故佐伯直田公男故佐伯直鈴伎麻呂以下一一人の佐伯直氏が佐伯宿禰の姓を賜っているが、改姓を申請した佐伯直豊雄の言によると、五世紀前期の允恭天皇の時に先祖の倭胡連公が讃岐国造に任ぜられたという。佐伯直の姓は佐伯部の伴造であったことを示すが、国造がその国に設置された部の管掌者を兼ねたものと思われる。佐伯直氏はのちに多度郡となる地域を本拠とした豪族であろう。現善通寺市大麻おおさ山の山腹・山麓に存在する四世紀から六世紀に築造された古墳は佐伯直氏の墳墓とみなされている。郡域に名がみえる部としては、佐伯部のほかに大伴氏の部大伴部、允恭天皇皇后忍坂大中姫の名代刑部がある。「西讃府志」は、藤原郷の名はこの地に允恭天皇妃衣通郎姫の名代藤原部が置かれていたことによるとしている。

「三代実録」貞観八年一〇月二七日条に、那珂郡三名・多度郡六名の因支首氏が和気公の姓を賜ったとあり、これはかつて両郡にまたがる地域に稲置が置かれていたことを示している。多度郡における因支首氏の居住地は、郷内に稲木いなぎの地名を残す良田郷であろう。佐伯直鈴伎麻呂は天長四年(八二七)一月二二日、勤務状態良好ということで冠位をあげられた郡司のなかに名がみえている(類聚国史)。郡名はないがおそらく多度郡司であろう。貞元二年(九七七)六月二五日の讃岐国司解(類聚符宣抄)によると、伴良田連定信が死亡した伴良田連宗定の後任として多度郡大領に任ぜられている。伴良田連は大伴部の伴造の後裔で、良田郷を本拠とした豪族と思われる。久安元年(一一四五)の善通曼荼羅両寺々領注進状(宮内庁書陵部所蔵文書)に多度郡司として綾貞方が署名しており、中讃の豪族綾氏が多度郡にも進出してきている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報