良田郷(読み)よしだごう

日本歴史地名大系 「良田郷」の解説

良田郷
よしだごう

古代の多度たど郡良田郷(和名抄)の郷名を継いだ中世郷。上吉田かみよしだ町・下吉田町・稲木いなぎ一帯に比定される。嘉禄元年(一二二五)讃岐国知行国主であった九条道家は、善通寺御影堂の空海自筆と伝える大師御影を都に迎えて拝覧した。御影の帰国に際して道家は同年四月の国司庁宣(善通寺文書)をもって良田郷内見作田三町を御影堂修理用途料として善通寺に寄進した。建長四年(一二五二)一一月、御影堂修理免田について、良田郷の立用名田内に得田があるにもかかわらず郷司が奉免しないという寺の訴えを受け、讃岐国留守所は先例に任せ免除すべき旨、多度郡司所に宛て下文(写、同文書)を発している。

良田郷
よしだごう

和名抄」高山寺本に「良田」と記し、「与之多」と訓じる。現下関市東北部にあたる吉田よしだはその遺名とみられるので、これを中心とした地域であることに異説はない。木屋こや川下流域とこれに注ぎ込む貞恒さだつね川の流域の一帯の地で、吉田・はた貞常さだつね川久保かわくぼ足河内あしかわち肥田ひだ木屋など、近世吉田村(現下関市)のほとんど全域がこれに該当するとみる説である。

良田郷
よしだごう

「和名抄」の高山寺本に「良田」と記し、訓はないが、流布本に「与之太」と訓じているので「よした」と称していたことがわかる。現塩尻しおじり広丘ひろおか地区の東部、川の左岸吉田よしだの集落がある。この吉田が良田郷の本郷であろうということについては異説はない。

この吉田を中心とする一帯は松本平を北流する田川流域の平坦地にあたり、塩尻市の北部田川左岸には特に弥生、土師の遺跡が多く所在することで知られている。

良田郷
よしだごう

「和名抄」高山寺本は郷名を欠く。東急本には「与之多」と訓を付す。のちに一円いちえん保となる寺領を記す久安元年(一一四五)一二月日の善通曼荼羅両寺々領注進状(宮内庁書陵部所蔵文書)に記す四至東限に、良田郷がみえる。なお貞観八年(八六六)一〇月に和気公の姓を賜った多度郡の因支首純雄らは、当郷の住人であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報