讃岐国(読み)サヌキノクニ

デジタル大辞泉 「讃岐国」の意味・読み・例文・類語

さぬき‐の‐くに【讃岐国】

讃岐

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日本歴史地名大系 「讃岐国」の解説

讃岐国
さぬきのくに

南は阿波国、南西の一部を伊予国と接し、残る三方は瀬戸内海に面する。島嶼部の国境が完全に確定するのは、享保一七年(一七三二)大槌おおつち(現高松市)の半分を備讃で分割する決定がなされてからであった。小豆島は中世まで備前国であり、両国の寛永国絵図には記載がなく、近世中頃までに讃岐になったとされる。備前寄りの島々も中世には備前国と記される島もあったが、元禄一五年(一七〇二)頃には讃岐になっていた。

古代

〔国造と部〕

讃岐の国造は、西讃に佐伯直、東讃に凡直がいる。佐伯直は五世紀前期の允恭天皇の時に国造になったと称し(三代実録)、凡直は六世紀後半、敏達天皇の世に任ぜられたという(続日本紀)。また「日本霊異記」に三木みき郡大領として小屋県主宮手の名がみえ、那珂なか多度たど両郡にまたがる地域に因支首氏が居住していることから(三代実録)、県・稲置が設置されていたことがわかる。国造は西讃に佐伯直、東讃に凡直が併置されていたとする説もあるが、両者の任命の時期には一〇〇年の隔りがある。凡直姓国造は瀬戸内海周辺に分布しており、六世紀後半頃、この地域の国造制が再編成され、従来の小地域の国造や県を包括する広域国造として設置されたといわれている。讃岐の場合も、五世紀頃に佐伯直らが地域的な国造となり、六世紀後半の敏達天皇のとき凡直が一国規模の大国造に任命されたとみてよいのではなかろうか。佐伯直は国造が佐伯部の管轄を兼ねたことから称された姓であろう。後代の史料から推察される部としては、佐伯部のほか、皇族所有の名代に藤原部・刑部・日下部・葛木部・宇治部・矢田部・額田部、朝廷の品部に忌部・秦部・韓鉄師部・錦部・壬生部など、中央豪族の部曲として物部・大伴部・丸(和邇)部・鴨部などがある。

秦氏は渡来人系雄族であるが、秦部のほか香川郡を中心に秦公・秦勝・秦人部・無姓の秦などが分布しており、それらすべてを渡来人の子孫とすることはできないにしても、多数の秦系渡来人が中讃に居住していたことは間違いないであろう。国造としては史料に出てこないが、東讃の凡直、西讃の佐伯直に並ぶ有力豪族として中讃に綾公がおり、天武天皇一三年(六八四)の八色の姓制定に際して朝臣の姓を授けられている(日本書紀)。日本武尊の子武卵王の子孫と称しているが、渡来人の漢氏と考える説も強い。綾氏の本拠地である阿野あや郡の(現坂出市)朝鮮式山城の遺跡があることも、それを裏付けるといわれている。

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改訂新版 世界大百科事典 「讃岐国」の意味・わかりやすい解説

讃岐国 (さぬきのくに)

旧国名。讃州。現在の香川県。

南海道に属する上国(《延喜式》)。讃岐国は低平で大河川に乏しく降雨量が極端に少なく,その農業史は干ばつとのたたかいの歴史であったが,同時に満濃(まんのう)池(現,仲多度郡まんのう町)など溜池灌漑の発達と畑作の発達によって,古くより安定した小規模経営の確立がみられた。また多数の島嶼を擁し,瀬戸内海交通の要衝を占めていたため,中央政権との政治的・軍事的関係が緊密であった。古代以来の〈土産〉=特産物として,醬大豆,塩,菅円座,金漆,陶器などがある。考古学の面では,北西部の塩飽(しわく)諸島に膨大な旧石器包蔵層が確認され,また弥生時代には北西部荘内半島の紫雲出(しうで)遺跡は高地性集落の典型として知られている。このほか,師楽(しらく)式土器をともなう製塩遺跡や島嶼部の祭祀遺跡が地域的特性を示している。古墳としては大小25基の円墳,双方中円墳,前方後円墳からなる石清尾(いわせお)山古墳群が名高く,古墳群の分布は寒川郡の海岸部,香川郡の石清尾山を中心とした地域,阿野(あや)・鵜足(うたり)郡堺,多度(たと)郡の平野部などに集中している。氏族の分布は,東から凡直(おほしのあたい),讃岐公,秦公,綾公,丸部臣(わにべのおみ),佐伯直,因支首(いなきのおびと)などが有力であった。667年(天智6)には,唐・新羅の侵攻にそなえ大和国高安城,対馬国金田城とともに讃岐国に屋島城がもうけられた。律令制下の国府は阿野郡におかれ(現,坂出(さかいで)市府中町)大内,寒川,三木,山田,香川,阿野,鵜足,那珂(なか),多度,三野(みの),刈田(かりた)(のちに豊田(とよた))の11郡を管し,国分寺がその東(現,綾歌郡国分寺町)に建立された。条里制の遺構は現坂出市の綾川流域や丸亀平野に顕著にみとめられ,現在大川郡志度町の多和(たわ)文庫にある735年(天平7)弘福寺(ぐふくじ)領〈讃岐国山田郡田図〉は日本最古の方格地割図として名高い。なお《和名抄》には,讃岐国の田数として1万8600町歩余が記録されている。9世紀末には菅原道真が国司として赴任し,〈寒早十首〉(《菅家文草》)などの詩作をものした。古代讃岐出身の人物に空海,円珍をはじめとする真言の五大師があり,また惟宗直本,讃岐永直をはじめとする明法道の俊秀を輩出したことが注目される。10世紀前半の藤原純友の乱では讃岐国もその一舞台となり,1156年(保元1)の保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐国松山(現,坂出市)に流された。12世紀末葉の治承・寿永の内乱では屋島に安徳天皇と平氏主力の拠点がもうけられ,屋島,志度で激戦がくりひろげられた。

鎌倉幕府成立後,守護職には後藤基清,近藤国平,三浦光村が補任され,13世紀中葉の宝治合戦ののちは北条氏の手に帰した。これより先の平安中期以降,善通寺,曼荼羅寺領の形成とそれにともなう国衙との抗争がみうけられ,以後徐々に荘園制の形成と中世国衙領の形成がみられた。中世の荘園としては,興福寺領神崎荘,醍醐三宝院領長尾荘,九条家領坂田荘,同塩飽荘,同子松(こまつ)荘,同詫間(たくま)荘,園城寺領金倉(かなくら)荘,法勝寺領櫛無(くしなし)保,善通寺領良田(よしだ)荘,同一円保,石清水八幡宮寺領山本荘,日吉社領柞田(くにた)荘などが知られる。また讃岐国は後白河法皇以後断続的に院分国となった。なお,1207年(承元1)法然が讃岐に配流となり,浄土宗の展開をもたらした。

 南北朝・室町時代,讃岐は細川氏嫡流,京兆(けいちよう)家の根本分国として重要な政治的役割をになった。《太平記》には1335年(建武2)足利尊氏の西走に際し,細川和氏,頼春,顕氏,定禅(じようぜん)らを西国諸国に配置して再挙にそなえたことが記され,このうち定禅が讃岐鷺田(さぎた)荘(現,高松市)で挙兵し諸勢力を糾合したことが伝えられている。さらに建武年間以降,顕氏,繁氏が讃岐守護に任ぜられ,62年(正平17・貞治1)細川頼之の補任以後は代々京兆家に世襲され室町幕府崩壊期におよんだ。讃岐の南朝方には南部山寄りに羽床氏や財田荘の大平氏,近隣小豆島の佐々木氏などがあったが1342年(興国3・康永1)以降ふるわず,62年,一時南朝に走った細川清氏が従弟頼之に白峰(しらみね)(現,坂出市)の合戦で誅滅されると,足利方,細川京兆家の安定した支配がもたらされることとなった。細川氏の治下,守護所は宇多津(うたつ)(現,綾歌郡宇多津町)におかれ,このほか細川氏は多度津(現,仲多度郡多度津町)を掌握し,さらに15世紀前半ころには備中,備後,東予を結ぶ要衝仁尾浦(におうら)(現,三豊市)を守護直領に編入するなど,内海交通の要所をおさえ積極的な分国経営を展開した。これ以前,香川郡が東西2郡,阿野郡が南北2郡に分かれ,讃岐国は計13郡となっていたが,このうち東7郡と小豆島は安富(やすとみ)氏が,西6郡は香川氏が守護代として支配を行っていた。安富氏の主城は寒川郡の雨滝(あめたき)城,香川氏の主城は多度郡の天霧(あまぎり)城であり,このほか有力国人香西(こうさい)氏の居城として香西郡の勝賀(かつが)城が名高い。以上の安富,香川,香西氏や奈良,寒川,長尾,十河(そごう)氏,那伽(なか)氏らは有力国人であるとともに細川氏内衆(うちしゆう)として京畿を中心に活躍した。このほか,国人の有力なものに牟礼(むれ),植田(うえた),田村,由佐(ゆさ),羽床氏などがあった。

 15世紀中葉の応仁の乱は,室町幕府崩壊への画期であったとともに,細川氏の没落,三好氏台頭の画期でもあった。細川氏の衰退とともに讃岐の国人,土豪勢力は,阿波三好氏と結ぶ植田氏らと,これに対抗し周防大内氏などと結ぶ香川,香西,安富,寒川氏らに二分され,衝突がくりかえされた。三好氏の讃岐来攻は1505年(永正2)より断続的に行われ,1532年(天文1)一時細川晴元の勢力もおよんだが,52年三好長慶が細川晴元より実権を完全に奪うと翌年には長慶の弟実休が阿波細川氏の権力を奪し,58年(永禄1)には大挙讃岐に攻め入り,これを支配することとなった。68年足利義昭を奉じて入洛をとげた織田信長は三好勢および本願寺勢力を攻略せんとして両者の提携をもたらし,讃岐においても本願寺勢力と有力国人との提携が生じた。しかし1574,75年(天正2,3)には国内に反三好の気運が増大し,75年信長による三好討伐とともに翌年までには国人諸勢力の信長に対する帰伏がすすんだ。78年に入ると土佐長宗我部元親の讃岐侵攻が開始された。元親による藤目(ふじめ)城(現,観音寺市)攻撃は失敗したものの,同年秋の財田(さいた)城(現,三豊市)攻略を皮切りに,79年香川氏との和議締結をはさみ,翌年8月までには中,西讃を席巻,82年8~10月には東讃を平定,ここに讃岐一国は長宗我部氏の支配に服した。しかし85年4~7月,豊臣秀吉が大軍をもって四国征伐を企てると長宗我部氏はもろくも降服,戦後処理として讃岐には秀吉の将仙石(せんごく)秀久が派遣されその支配が行われるに至った。

 鎌倉末・南北朝から戦国時代は地方文化の時代でもあったが,代表的な建造物として坂出市神谷神社本殿,三豊市本山(もとやま)寺本堂があり,真言の僧宥範(ゆうはん)や増(ぞううん)の活動にはいちじるしいものがあった。また山崎宗鑑の来住と活動も注目される。
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1585年(天正13)の豊臣秀吉の四国征伐で,讃岐には仙石秀久が入部してきた。のち尾藤知宣に代わり,87年には生駒親正が讃岐15万石に封ぜられた。親正は香川郡野原荘の海浜に高松城を,また西讃の支城として那珂郡亀山に丸亀城を築いた。生駒氏は検地の実施,高松城下の整備,干ばつの被害を防ぐために満濃池をはじめとする溜池の修築造などを行ったが,高松藩4代藩主高俊の1640年(寛永17)に家臣の対立に端を発した御家騒動(生駒騒動)がおこり,出羽矢島1万石に改易された。そのあとには41年西讃岐に山崎家治が,翌年には東讃岐に三家の水戸家の出である松平頼重が入り,それぞれ丸亀城,高松城を居城とした。山崎氏は3代で終わり,58年(万治1)京極高和が丸亀城に入り,94年(元禄7)丸亀藩から支藩多度津藩が分かれた。

 17世紀中ごろの讃岐では,山田郡の海浜の埋立てによる春田新田,百石(ひやくこく)新田の干拓や豊田郡の井関(いぜき)池の築造を中心とした大野原開拓による農耕地の拡大,高松藩領における1665年(寛文5)に始まる検地,また干害による水不足を解消して農業用水を確保するための各地における多数の溜池の築造など,讃岐における近世農村の基礎が固められた。瀬戸内海の海上交通の要地に位置する塩飽諸島や小豆島などは幕初から天領であったが,生駒氏改易後は新たに満濃池の普請費用を確保するため那珂郡の3ヵ村(2290石余)が天領となった(これを池御領(いけごりよう)という)。塩飽では豊臣秀吉より島の構成員たる人名(にんみよう)に島の石高(1250石)が与えられ,以来人名の中の有力者である年寄の合議によって島の政治が行われ,1797年(寛政9)には年寄が政務を執る勤番所(きんばんしよ)が建てられた(現在,復元・保存されている)。西廻海運の発達によって中世に水軍として活躍した塩飽では廻船業が発展し,幕府の城米輸送船として大いに栄えたが,近世後期には衰えた。この塩飽船衆たちによって海の守護神また現世利益神としての金毘羅(こんぴら)信仰が各地へ広められた。1648年(慶安1)に江戸幕府の朱印地(330石)となった金毘羅(現,琴平町)は18世紀初めころには門前町としての姿を整え,以後庶民による信仰の高まりの中で発展していった。金毘羅へは伊予,阿波,多度津,丸亀,高松の各街道が集まっており,とくに多度津と丸亀城下は金毘羅への上陸地としてにぎわった。丸亀では1833年(天保4)に金毘羅船の発着場として新しく新堀湛甫を築いている。高松城下は1644年(正保1)に上水道を整備し以後東南へ向けて城下域を広げていったが,1801年(享和1)に東浜に新地を築き,問屋商人を移住させて領外との商品取引の中心地とした。

 讃岐へは元和ころに播磨の赤穂から製塩業者が多く移住してきたといわれており,寛永末ころには香川郡の生産高を筆頭に各郡で製塩が行われているが,讃岐の塩田を代表するのは1755年(宝暦5)と翌年に築かれた山田郡の西潟元(にしかたもと)の亥浜(いのはま),子浜(ねのはま)塩田と,1829年(文政12)に完成した阿野郡北の坂出の東大浜,西大浜である(坂出塩田)。とくに坂出大浜は久米栄左衛門の築造に成るもので,当時日本有数の規模の塩田であった。また讃岐から18世紀中ごろに大坂へ木綿・繰綿が送られており,おもに西讃岐が綿の産地であった。18世紀末には白砂糖の製造が向山周慶らによって始められ,天保初年(1830ころ)には大坂市場で高松藩産の砂糖が5割を占めていたように,白砂糖の代表的な産地となった。この塩・綿・砂糖を讃岐三白といい讃岐の主要な産物であるが,このほか和紙や漆器,金毘羅土産の丸亀団扇(うちわ)などがあった。このように讃岐は各種の商品の生産の盛んな地域であった。丸亀藩領の西部で1750年(寛延3)に年貢未進延納,過重負担廃止を要求する大一揆がおこり,また69年(明和6)に塩飽で大工らによる打毀,1834年(天保5)には高松藩領の坂出村で零細な製塩業者を中心とする米安売り要求の一揆が発生した。坂出一揆は金毘羅領や池御領へ波及した。さらに67年(慶応3)に小豆島で1838年以来津山藩領となっていた西部六郷で,諸負担の軽減を求める一揆がおこった。

 讃岐は平賀源内や柴野栗山を生んだ地であるが,女流文学者の井上通女(つうじよ),丸亀城下で活躍した俳人岸夕静(ゆうせい),柴野栗山の師である後藤芝山(しざん),大塩平八郎の教えを受けた陽明学者林良斎,国学者の友安三冬らも著名である。また滝沢馬琴と親交があり膨大な《聞ままの記》を著した木村黙老(もくろう)がいる。明治維新に際して高松藩は,鳥羽・伏見の戦で幕府軍に従っていたため朝敵となり,土佐,丸亀,多度津藩兵によって高松城を接収されたが,家老の首級を差し出すことで許された。1869年(明治2)高松藩の執政松崎渋右衛門殺害事件,71年に丸亀藩権大参事土肥大作襲撃事件がおこったが,これらは当時の讃岐の混乱を物語るできごとであった。廃藩置県後一時香川県が成立したが,73年に徳島に県庁を置く名東県に併合された。この年に讃岐西部で徴兵反対の大規模な血税一揆が発生した。75年に再び香川県となり,1年後には愛媛県に編入された。そして88年に全国最後の置県として香川県が成立した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「讃岐国」の意味・わかりやすい解説

讃岐国
さぬきのくに

香川県の旧国名。南海道に属する。南に阿波(あわ)、西に伊予(いよ)、北は瀬戸内海を隔てて三備(さんび)(備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご))に相対する。古くは『古事記』に国名がみえる。当地を開発した忌部(いんべ)氏が矛竿(ほこさお)を貢ぎ物としたことから、竿調国(さおつきのくに)といわれ、それが「さぬき」につづまったとも伝えられる。『延喜式(えんぎしき)』では、大内(おおち)、寒川(さむかわ)、三木(みき)、山田、香川、阿野(あや)、鵜足(うたり)、那珂(なか)、多度(たど)、三野(みの)、刈田(かりた)(豊田(とよた))の11郡であった。国府は現在の坂出(さかいで)市府中町に、国分寺は現在の高松(たかまつ)市国分寺町国分にあった。条里制の遺構は各地に残り、三条、四条、五条、一ノ坪、六ノ坪などの地名が多くみられる。雨量が少なく干害が多かったため、溜池(ためいけ)が各地につくられ、大宝(たいほう)年間(701~704)国守道守朝臣(みちもりのあそん)が築造し、のち821年(弘仁12)に空海が修築したといわれる満濃池(まんのういけ)は著名である。おもな荘園(しょうえん)としては、皇室領の野原(のはら)荘・姫江(ひめえ)荘・長尾(ながお)荘、摂関家領の子松(こまつ)荘(宣仁門院(せんにんもんいん)領)・詫間(たくま)荘(九条(くじょう)家領)・栗隈(くりくま)荘(近衛(このえ)家領)、寺社領に神崎(かんざき)荘・藤原荘(興福寺(こうふくじ)領)・富田(とみた)荘・多度荘(安楽寿院(あんらくじゅいん)領)・真野(まの)荘・金倉(かなくら)荘(園城寺(おんじょうじ)領)・二宮(にのみや)荘(仁和寺(にんなじ)領)・吉原荘・良田(よしだ)荘(善通寺(ぜんつうじ)領)・牟礼(むれ)荘・本山(もとやま)荘(石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)領)などがあげられる。

 鎌倉時代になると守護に橘公業(たちばなのきみなり)が任ぜられ、後藤・近藤・三浦氏と変遷し、その後、北条氏一門が守護になる。南北朝時代に細川氏の支配が伸び、その領国として戦国期まで続く。鵜足郡宇多津(うたづ)を守護所とし、安富(やすとみ)・香川氏が守護代となった。当地では古くから水運に携わる者が多かったが、とくに中世の塩飽(しあく)水軍は、丸亀沖の塩飽諸島を拠点に活発な動きを示した。応仁(おうにん)の乱(1467~1477)には多くの讃岐武士が出陣したが、その一方で細川氏の領国支配力は弱まり、在地武士が割拠し勢力を競った。やがて阿波で勢力をもっていた三好氏が侵入し、細川氏の支配に終止符を打つが、1584年(天正12)土佐の長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)の侵攻によって征服される。豊臣(とよとみ)秀吉の四国制圧により仙石秀久(せんごくひでひさ)が入国し、やがて尾藤知宣(びとうとものり)に支配され、1587年生駒親正(いこまちかまさ)が入国して17万石を領し、翌年高松城を築城し居城とする。4代高俊(たかとし)のときに藩内での新旧家臣の権力争いである生駒騒動が起こり、出羽(でわ)国に転封となる。1642年(寛永19)松平頼重(まつだいらよりしげ)が東讃12万石を領し、1641年(寛永18)西讃は山崎氏が5万3000石を領し丸亀藩を興す。山崎氏の後に京極(きょうごく)氏が6万石で封ぜられ、1694年(元禄7)多度津1万石が分封され、当国は3藩となり幕末に至る。廃藩置県により1871年(明治4)2月、多度津藩は倉敷県に併合され、4月に丸亀(まるがめ)藩、10月に高松藩がそれぞれ丸亀県、高松県となる。同年11月、高松・丸亀2県は香川県に統合される。1873年名東(みょうどう)県に合併されたが、1875年ふたたび香川県を置く。翌年愛媛県に合併され、1888年に分かれて香川県となり現在に至る。

 讃岐の産業は、円座(えんざ)、檀紙(だんし)の生産が早くから行われており、塩の生産は江戸時代に入って急増、高松藩の指揮下に藩の測量方であった久米栄左衛門(くめえいざえもん)(通賢(みちかた))が普請奉行(ふしんぶぎょう)となり、塩田開発が進められた。砂糖も藩の奨励作物で、綿とあわせてこの3品は「讃岐三白(さんぱく)」といわれた。さらに丸亀藩でつくられ始めた団扇(うちわ)や、小豆島(しょうどしま)産の石材も名高い。また当国は空海の生誕地でもあり、四国八十八か所の札所が各地にみられ、海上信仰の金刀比羅宮(ことひらぐう)も「こんぴらさん」として親しまれている。

[橋詰 茂]

『『新修香川県史』(1953・香川県)』『『香川叢書』(1971・香川県/再刊・1972・名著出版)』『『新編香川叢書』全5巻(1979~83・香川県)』『福家惣兵衛著『香川県通史』(1965・上田書店)』『市原輝士・山本大著『県史シリーズ37 香川県の歴史』(1971・山川出版社)』『香川地方史研究会編『讃岐の歴史』(1975・講談社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「讃岐国」の意味・わかりやすい解説

讃岐国
さぬきのくに

現在の香川県。南海道の一国。上国。『古事記』では「飯依比古」と称し,古くは讃岐国造の支配したところであった。讃岐国造は『日本書紀』『続日本紀』『三代実録』『旧事本紀』にもみえ,応神天皇のときに景行天皇の皇子神櫛王が国造となったという。当国にはこの国造の系統以外に隣国の阿波から忌部氏 (→斎部氏 ) の勢力が入り込み,かなり強いものであったとみられる。国府は坂出市府中町に,国分寺は高松市国分寺町に置かれた。『延喜式』には大内郡,寒川郡,三木郡,山田郡,香川郡,阿野郡,鵜足郡,那珂郡,多度郡,三野郡,刈田郡の 11郡があり,刈田郡は当国では豊田郡と称したとある。雨量が少なく干害に悩まされたため,ため池が各地につくられた。当国出身である弘法大師空海が多度郡の満濃池を大修築し,灌漑,用水の便をはかったことは有名。平安時代末期,保元の乱 (1156) の結果,崇徳上皇が白峰 (→白峰山 ) に流され,源平合戦では屋島が舞台 (→屋島の戦い ) となった。鎌倉時代には初めに近藤氏,のちに北条氏が,南北朝時代から室町時代にかけては歴代細川氏が守護となった。その後,仙石氏,生駒氏の支配が続き,江戸時代には生駒氏の高松藩があったが,のち松平氏が領するにいたった。京極氏の丸亀藩は多度津にも支藩 (→多度津藩 ) があった。明治4 (1871) 年の廃藩置県で7月に高松藩,丸亀藩がそれぞれ県となり,さらに 11月に合併して香川県となった。その後 1875年に一時改変があったが,1888年に再び香川県となった。

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藩名・旧国名がわかる事典 「讃岐国」の解説

さぬきのくに【讃岐国】

現在の香川県域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で南海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府は現在の坂出(さかいで)市府中(ふちゅう)町、国分寺は高松市国分寺町におかれていた。平安時代初期に活躍した真言宗の開祖空海はこの地で生まれ、四国八十八ヵ所の札所が各地にある。10世紀前半に藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱の舞台の一つとなり、1185年(文治(ぶんじ)1)には屋島(やしま)で源平が戦った。鎌倉時代守護佐々木氏、近藤氏など、南北朝時代以降は細川氏戦国時代には三好長慶(みよしながよし)長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が領有した。江戸時代には松平氏の高松藩、山崎氏のちに京極氏丸亀藩がおかれた。1871年(明治4)の廃藩置県により香川県が誕生。1873年(明治6)に名東(みょうどう)県に併合されたが1875年(明治8)に再置。さらに1876年(明治9)に愛媛県に併合されたが、1888年(明治21)に分かれて現在の香川県となった。◇讃州(さんしゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「讃岐国」の意味・わかりやすい解説

讃岐国【さぬきのくに】

旧国名。讃州とも。南海道の一国,現在の香川県。《延喜式》に上国,11郡。気候温暖で畿内に近いため古くから開けた。中世後期,細川氏守護の後,三好・長宗我部氏の支配を経て,近世には高松・丸亀など諸藩に分封。→高松藩丸亀藩
→関連項目一円保香川[県]国分寺[町]四国地方朝鮮式山城

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「讃岐国」の解説

讃岐国
さぬきのくに

佐貫国・狭貫国とも。南海道の国。現在の香川県。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では大内(おうち)・寒川・三木・山田・香川・阿野(あや)・鵜足(うたり)・那珂・多度・三野・刈田(かった)の11郡からなる。国府は阿野郡(現,坂出市),国分寺・国分尼寺も阿野郡(現,高松市国分寺町)におかれた。一宮は田村神社(現,高松市)。古くから開発が進み,「和名抄」所載田数も1万8647町余と多い。一方旱害に苦しみ,多くの溜池を造成した。「延喜式」では調は絹・塩・雑器,庸は米・韓櫃(からびつ)など。中男作物に黄蘗(きはだ)などがある。古代には讃岐氏などの明法(みょうぼう)家,空海・円珍らの高僧を輩出。鎌倉時代の守護は宝治合戦以後,北条氏が独占。室町時代の守護は細川氏。近世は高松藩・丸亀藩が成立,島嶼部は幕領とされた。産物として砂糖・塩・綿が讃岐三白として知られた。1871年(明治4)の廃藩置県により高松県・丸亀県が成立,以後いくどかの合併・分離ののち,88年香川県が成立。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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