允恭天皇(読み)インギョウテンノウ

精選版 日本国語大辞典 「允恭天皇」の意味・読み・例文・類語

いんぎょう‐てんのう‥テンワウ【允恭天皇】

  1. 第一九代天皇。仁徳天皇の第四皇子。名は雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)。「古事記」によれば大和遠飛鳥宮(やまととおつあすかのみや)に都を定めた。「宋書」の倭の五王の「済」にあたるとされている。

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百科事典マイペディア 「允恭天皇」の意味・わかりやすい解説

允恭天皇【いんぎょうてんのう】

5世紀前半の在位仁徳天皇皇子。名はオアサヅマワクゴノスクネ。大和の遠飛鳥(とおつあすか)宮を宮居とし,盟神探湯(くかたち)により氏姓の乱れを正したという。《宋書》倭国伝の(わ)王済(せい)にあてるのが定説。→倭の五王
→関連項目安康天皇餌香市忍坂

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「允恭天皇」の意味・わかりやすい解説

允恭天皇
いんぎょうてんのう

第19代に数えられる天皇。名はオアサヅマワクゴノスクネノミコト。仁徳天皇の第4皇子,母は皇后イワノヒメノミコト。大和遠飛鳥宮(→飛鳥)に都し,皇后はオサカノオオナカツヒメノミコトという。兄反正天皇に次いで即位。氏姓の混乱を正すため,盟神探湯(くかたち)を行なったと伝えられる。陵墓允恭天皇陵市野山古墳とも呼ばれる大阪府藤井寺市国府の恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)で,2019年世界遺産の文化遺産に登録。(→倭の五王

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「允恭天皇」の意味・わかりやすい解説

允恭天皇
いんぎょうてんのう

記紀によれば第19代天皇。雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさづまわくごのすくねのすめらみこと)ともいう。『宋書(そうじょ)』にみえる倭王(わおう)の済(せい)にあたるとされている。仁徳(にんとく)天皇第4皇子。母は磐之媛(いわのひめ)。大和(やまと)の遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)(奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村付近)に都する。忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)を皇后とし、刑部(おさかべ)を定める。允恭天皇4年、氏姓の混乱を正すため味橿丘(あまかしのおか)で盟神探湯(くかたち)を行った。のち皇后の妹で容姿絶妙の衣通郎姫(そとおりのいらつめ)を妃とし、藤原宮を建て藤原部を定めた。このため皇后はねたみ、雄略(ゆうりゃく)天皇を産むときに産殿(うぶどの)を焼き、死のうとしたといわれる。在位42年で崩じ、河内(かわち)長野原陵に葬られた。

[志田諄一]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「允恭天皇」の解説

允恭天皇 いんぎょうてんのう

記・紀系譜による第19代天皇。在位は5世紀中ごろ。
父は仁徳天皇。母は磐之媛命(いわのひめのみこと)。「日本書紀」によると,履中・反正(はんぜい)天皇の同母弟で,安康・雄略天皇の父。氏姓の乱れをただすため,盟神探湯(くがたち)を実行したという。「宋書」倭国伝の倭王の済とされる。允恭天皇42年1月14日死去。78歳。墓所は恵我長野北陵(えがのながぬのきたのみささぎ)(大阪府藤井寺市)。別名は雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさづまわくごのすくねのすめらみこと)。
【格言など】花ぐはし桜の愛(め)で同(こと)愛でば早くは愛でず我が愛づる子ら(「日本書紀」允恭天皇8年)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「允恭天皇」の解説

允恭天皇
いんぎょうてんのう

記紀系譜上の第19代天皇。5世紀中頃の在位という。雄朝津間稚子宿禰(おあさつまわくごのすくね)天皇と称する。仁徳天皇の皇子。母は皇后磐之媛(いわのひめ)。皇后忍坂大中姫(おしさかおおなかつひめ)との間に安康・雄略両天皇がいる。「宋書」倭国伝の倭王済(せい)に比定される。葬られた恵我長野北(えがのながののきた)陵は,大阪府藤井寺市国府の市ノ山古墳にあてられる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「允恭天皇」の解説

允恭天皇
いんぎょうてんのう

生没年不詳
5世紀中ごろの天皇
仁徳天皇第4皇子。氏姓の混乱を正すため盟神探湯 (くがたち) を行ったという。『宋書』倭国伝にみえる倭の五王の一人,済 (せい) に比定される。

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世界大百科事典(旧版)内の允恭天皇の言及

【住吉仲皇子】より

…仁徳天皇の皇子で,母は磐之媛(いわのひめ)皇后。難波宮を焼き同母兄の履中天皇殺害を謀るが,天皇は物部大前宿禰,漢直阿知使主(あやのあたいあちのおみ)らに助けられ大和の石上(いそのかみ)神宮に入る。一方,皇子は瑞歯別皇子(みずはわけのみこ)(後の反正天皇)に指嗾(しそう)された隼人(はやと)の刺領布(さしひれ)に刺殺される。《日本書紀》は謀叛の原因に皇子が天皇の婚約者,羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)の娘の黒媛を姦したことをあげる。…

※「允恭天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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