多比良村(読み)たいらむら

日本歴史地名大系 「多比良村」の解説

多比良村
たいらむら

[現在地名]国見町多比良

土黒ひじくろ村の東に位置し、北流する土黒川が北西部で海に注ぐ。西は栗谷くりや川を境に湯江ゆえ(現有明町)尾崎おさきの一帯に鞴の羽口や鉄糞が散在していることから蹈鞴製鉄が行われたと想定され、地名もその転訛とする説がある。村名の表記はもと平村であったが、領主の姓を避けて改めたという(伊能忠敬測量日記)馬場名の出雲ばばみようのいずも・尾崎・すみ金山かなやま名の橋川はしかわくら魚洗川いわれご轟木とどろき名のじん・立小路・とうげ京塚きようつか須崎すさき田久保たくぼ船津ふなつ名の琴平こんぴら高下こうげ名の植松うえまつ原口はるぐち・中高下などがある。行基が雲仙うんぜんに温泉山満明まんみよう(現小浜町)を開創したとき莫大な寄進を行ったと伝える五万長者ごまんちようじや遺跡があり、五万は護摩堂から転じたものとして寺院とする見解にしたがえば、胡麻田ごまだ京田きようだ(経田か)惣田そうだ寺広野てらごうやなどの地名が留意される。また高来たかく郡の郡家の跡とみる説もあって、高下の地名もその転訛と想定しうるが、高下には市場いちば馬継うまつぎ栗谷くりや(厨家か)などの地名がある。土黒川流域は河川名にふさわしく古くから砂鉄を豊富に産しており、貞観一八年(八七六)に三位の神階を与えられた銀山神(「三代実録」同年六月八日条)を高下名の金山神社に比定する説がある(ただし同社号は明治期の命名)。轟木名に多比良城の跡があり、空堀や馬場ばばじんじようもとなどの地名が残る。馬場名の角に神代貴茂の墓がある。一五八七年(天正一五年)から翌年にかけて三会みえ(現島原市)での布教に成功したイエズス会はタヒラでも試みて成果があがらなかったものの、一五八九年一一月にはコエリヨ神父により住民の多いタヒラの村で一千二四五人が受洗したという。この頃剣術の指南を職とする異教徒がおり、日本人修道士の夜間の説教の場に邪魔に入り、また三会の市でも喧嘩をしかけて騒動を起こしたという(フロイス「日本史」)

江戸時代は島原藩領の北目筋に属し、かつては土黒村と一村であったという。慶長国絵図に「多比良」とみえ、高一千六〇〇石余。慶長一八年(一六一三)高力山正覚しようがく寺が創建され、明順の開基という。明順は寛永一四年(一六三七)の島原の乱で門徒・村民を率いてもり(現島原市)に駆け付け、大手門キリシタンの攻勢を防いだと伝える(「安養寺縁起」多比良町郷土誌)。高下名の胡麻堂にキリシタン処刑の伝承がある耳切り甚五郎の墓がある。

多比良村
たいらむら

[現在地名]吉井町多比良

大沢おおさわ村の東、南は下日野しもひの村・緑野みどの金井かない(現藤岡市)、西はしお村・多胡たご村、北は矢田やた村・石神いしがみ村、東は黒熊くろくま村と西平井にしひらい(現藤岡市)に接する。南西に牛伏うしぶせ(四九〇・五メートル)があり、南部は山間をなす。東部を深沢ふかさわ(土合川)が北流し、西部を牛伏山麓から流出する天久あまく(矢田川)が北流する。元亀三年(一五七二)六月九日の武田家定書(県庁蔵)で「多比良 弐百廿貫文」の代官に高山彦兵衛尉が任命され、六月一九日には多比良領のうち六〇貫文が浦野新八郎に宛行われている(武田信玄定書写「新編会津風土記」所収)。天正六年(一五七八)頃にも浦野氏が所領とし、同年一二月一五日「多比良内并石原之郷」で御城御用以外の竹林伐採を禁ずる武田家定書(同書所収)が出されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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