日本歴史地名大系 「多野郡」の解説 多野郡たのぐん 面積:四一〇・三一平方キロ吉井(よしい)町・新(しん)町・鬼石(おにし)町・万場(まんば)町・中里(なかざと)村・上野(うえの)村県の南西部に位置し、明治二九年(一八九六)緑野(みどの)・多胡(たご)・南甘楽(みなみかんら)の三郡が合併してできた新郡(→緑野郡 →多胡郡 →南甘楽郡)。郡域は東西に長く、昭和二九年(一九五四)分離した藤岡市を挟んで北東部西に吉井町、東に新町がそれぞれ離れて位置する。吉井町と新町を除くと大部分は山地で、ことに万場町・中里村・上野村は標高一九八二メートルの会社平(かいしやだいら)をはじめ東西の御荷鉾(みかぼ)山、赤久縄(あかぐな)山・十石(じつこく)峠・三国山など一千二、三〇〇メートルから一千五、六〇〇メートル前後の峰々に囲まれる。鏑(かぶら)川が吉井町中央部から藤岡市北境・新町東部を東流、三波(さんば)川などの支流を合せた神流(かんな)川が南部から東境を北流する。北東は佐波(さわ)郡玉村(たまむら)町、東から南にかけて埼玉県児玉(こだま)郡・秩父(ちちぶ)郡、西は長野県南佐久(みなみさく)郡、北は甘楽郡南牧(なんもく)村・下仁田(しもにた)町・富岡市・安中市・高崎市と接する。吉井町中央を東西に国道二五四号が通り、並行して上信電鉄が走る。志賀坂(しがさか)峠越で国道二九九号が北行して中里村から上野村に至る。新町には国道一七号(旧中山道)と国鉄高崎線が通る。神流川上流域は、近世には十石街道を通じ武州・信州との往来が盛んで、三波川や日野(ひの)(現藤岡市)の谷も独自な生活が営まれていた。北東部から西部にかけては藤岡・吉井を経て鏑川沿いに通る下仁田道が発達、古くは緑野屯倉が置かれ、古墳の密集地帯で、国指定特別史跡の多胡碑(現吉井町)もあり、同山上(やまのうえ)碑・同金井沢(かないざわ)碑(現高崎市)も近く、古代文化の舞台となった地域である。〔原始・古代〕鮎(あゆ)川左岸の台地上の藤岡市白石(しろいし)から精巧な石槍が出土しており、先土器文化の遺物とみられる。鏑川右岸の段丘上の吉井町多比良の新堀(たいらのにいぼり)城跡からも同種のものが表面採取で発見されている。神流川上流域には縄文文化が発達した。上野村では遺跡および遺物包蔵地・散布地としておもなもので一三ヵ所、なかでも新羽(につぱ)遺跡からは、早期から後期までの各期の遺物がみられる。この地域からは大型石斧が多く出土していることが注目される。中里村では前期から後期にかけての包蔵地・散布地が八ヵ所。万場町では神流川の河岸段丘上に前期から後期にかけて包蔵地が六ヵ所、遺物の散布状態からみて小集落の形成を推測させる地もある。鬼石町では美原(みはら)地区だけでも遺物の包蔵地・散布地が一四ヵ所あり、中期末から後期・晩期に盛行したかにみえる。ほかに「群馬県遺跡台帳」に載せるもの一三ヵ所があり、鬼石町の譲原(ゆずりはら)石器時代住居跡(国指定史跡)・譲原石器時代聚落跡(県指定史跡)が含まれる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by