多田庄(読み)ただのしょう

精選版 日本国語大辞典 「多田庄」の意味・読み・例文・類語

ただ‐の‐しょう‥シャウ【多田庄】

  1. 摂津国川辺郡(兵庫県川西市)の多田院を中心としてあった荘園。摂関家領多田源氏発祥地
    1. [初出の実例]「但馬国に多田庄、摂津国に葉室二ケ所給はって帰り上(のぼ)る」(出典:平家物語(13C前)一二)

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日本歴史地名大系 「多田庄」の解説

多田庄
ただのしよう

古代の川辺かわべ(和名抄)内に成立した庄園で、のち他郡域にも及んだ。摂関家領。猪名いな川としお川が合流する辺りを中心に、現川西市・猪名川いながわ町・宝塚市・三田市などにわたる広大な地域に比定される。「台記別記」仁平三年(一一五三)八月八日条に「多田御庄」とみえ、藤原頼長の奈良春日詣に際して屯食一五具のうち当庄が三具を負担することと定められている。

〔源氏発祥の地〕

これより先、経基王の子源満仲は多田の地に本拠を構え、天禄元年(九七〇)多田院を開創した(歴代編年集成)。その頃の多田館周辺は、検非違使も入れない地域であったことは「雑筆要集」所載の文書例文で知られる。おそらく満仲の武力によって支配する私領で、一族郎党の本拠を据えたものと思われる。満仲は寛和二年(九八六)多田で出家したことは「今昔物語」巻一九の説話で有名であるが、その説話からかなり組織だった一族郎党を率いていたことがうかがわれる。ただし説話を満仲当時のものとみるのは疑問とする説もあるが、満仲が多田に本拠を据えたことから源氏武士団が成長したことは事実で、多田はまさしく源氏発祥の地といえる。満仲は長徳三年(九九七)に没したが、おそらく多田で没したと考えられ、多田院に廟所が営まれ、以後長く源氏の祖廟として信仰された。長和三年(一〇一四)満仲の次男頼親は「かの国(摂津)に住し、所領甚だ多く、土人(土豪)の如し」として、特定の国に多くの所領をもつ者をその国の受領に任じない当時の原則に従って、藤原道長の推挙にもかかわらず摂津守任官を拒否されているが(「小右記」同年二月一六日条)、所領の多くは多田にあったものであろうか。ただし満仲の子頼光・頼親・頼信とも多田に本拠を据えた形跡はなく、「尊卑分脈」によれば、多田を姓としていわゆる多田源氏の直接の祖となったのは、頼光の孫頼綱である。満仲から頼綱へ多田の地がどのように伝領されたのか不明だが、「尊卑分脈」には別に満仲の七男頼範の子に頼綱を載せ、頼光孫の頼綱と同一人かという頭注がある。「尊卑分脈」の所伝には混乱があり、多田の地は頼範を経て頼綱が伝領したのかもしれない。それはともかく頼綱は関白藤原師実(京極殿)に近侍して政所別当をつとめ、一女を師実の子師通の妾としている。この深い関係によって、頼綱が多田の地を摂関家に寄進したものと思われる。直接の史料はないが、摂関家が五摂家に分立後多田庄を伝領した近衛家の所領目録(建長五年一〇月二一日、近衛家文書)には請所のうちに多田庄がみえ、「京極殿堂領」と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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