多田院(読み)ただのいん

精選版 日本国語大辞典 「多田院」の意味・読み・例文・類語

ただ‐の‐いん‥ヰン【多田院】

  1. 兵庫県川西市多田院にあった寺。山号は鷹尾山。天祿元年(九七〇)多田(源)満仲がその子源賢を開山創建。満仲を主神に頼光頼信、頼義、義家の霊をまつり、源氏菩提(ぼだい)所となった。寛文七年(一六六七再建明治維新の際の神仏分離以後、多田神社となる。法華三昧院。ただいん。

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改訂新版 世界大百科事典 「多田院」の意味・わかりやすい解説

多田院 (ただのいん)

摂津国河辺郡多田(現,兵庫県川西市)にあった寺院。正しくは多田院鷹尾山法華三昧堂。現在多田神社。970年(天禄1)摂津守源満仲の創建で,その子息天台僧源賢を開山とする。本尊は丈六釈迦仏で願主は満仲,そのほか文殊(もんじゆ)菩薩は頼光,普賢ふげん)菩薩は頼親(大和源氏の祖),四天王は頼信(河内源氏の祖)と,それぞれ満仲の子息たちが願主となっている。その前年の安和(あんな)の変で中央政界に地歩を確立した満仲は,摂津守として現地に赴任し,多田の地を根拠地に定めて多田館を建立する。多田は猪名川の渓谷沿いの小盆地で,周囲を丘陵で囲まれた自然の要害であり,軍事貴族の根拠地として好適な地形を備えていた。近くには鉱山もあったという。満仲はここに居館を建て,多くの一族郎等をやしなって勢力をたくわえた。多田院もその多田の一角に建立されたのである。付近一帯の多田院所領は多田荘として立券されている。997年(長徳3)満仲が没すると多田院に葬り,廟墓とした。満仲ののち頼光がここを継承,以後この一流は清和源氏の中でもとくに摂津源氏あるいは多田源氏と呼ばれるようになる。のち頼光のほか河内源氏の頼信(誕生は多田館という)・頼義・義家が合祀され,源氏の菩提所となっていった。

 鎌倉後期になると忍性(にんしよう)が幕府の援助で寺院を再興し,1281年(弘安4)に本堂供養が行われ,別当職は忍性に付せられた。以後当院は大和国西大寺(さいだいじ)の管轄となり,天台宗から真言律宗に変わる。その後も当院の修復は続けられ1312年(正和1)には三重塔が供養されて諸堂宇の完成をみたといわれる。34年(建武1)足利尊氏が天下泰平・子孫長久の願文をおさめ,58年(正平13・延文3)尊氏が没すると義詮がその遺骨の一部を当院に納め,以後歴代の足利将軍の遺骨もここに納置された。徳川将軍家も源氏を称して当院を崇敬したという。1472年(文明4)従二位,1696年(元禄9)正一位の神階を贈られた。明治維新後,多田神社となる。
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国指定史跡ガイド 「多田院」の解説

ただいん【多田院】


兵庫県川西市多田院にある寺院。源満仲(みなもとのみつなか)が970年(天禄1)に建立した寺で、域内には金堂・塔婆・学問所・法華堂・常行堂・御影堂が営まれて惣社六社権硯を祀り、荘厳を誇っていたが、中世後期には衰退した。江戸時代に入り、幕府は新たに本殿・拝殿・釈迦堂などを設け、多田権現の神号を受けるなど、神社としての色彩を濃くし、明治維新後に多田神社と改称。社地は当初の位置を継承し、境内は四方に石垣・堀をめぐらせたなかに、源満仲・同頼光の墓、足利尊氏の分骨の墓などが残る。源満仲の廟所として鎌倉・室町・江戸幕府の崇敬を受けた、歴史上重要な寺院であることから、1951年(昭和26)に国の史跡に指定された。本殿、拝殿、随神門は重要文化財の指定を受け、境内には宝物殿があり、源氏ゆかりの宝物を展示している。能勢電鉄妙見線多田駅から徒歩約15分。

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