日本歴史地名大系 「多田銀銅山跡」の解説 多田銀銅山跡ただぎんどうざんあと 兵庫県:川辺郡多田銀銅山跡現猪名川(いながわ)町銀山(ぎんざん)を中心に十数キロ四方に鉱脈が広がる銀銅山。古代から断続的に採掘されていた。摂津国の川辺・豊島(てしま)・能勢(のせ)の三郡にまたがり、近世には七宝山(しちぽうざん)・奇妙山(きみようざん)・銀山・高山(たかやま)の四つの親鉉があり、無数の間歩が開かれていた。現在の猪名川町・川西市・宝塚市と、大阪府豊能(とよの)郡・池田市・箕面市がその範囲とされる。奈良時代に奇妙山神教(しんきよう)間歩で奈良東大寺大仏を鋳造する銅を得るために採掘がなされ、源満仲の代、天禄元年(九七〇)に金瀬五郎が採掘を始め、銀・銅を産したともいうが(「多田銀銅山来歴申伝略記」静嘉堂文庫)、確かな史料では確認できない。長暦元年(一〇三七)能勢郡から初めて銅が献上され(「扶桑略記」同年三月一日条、「百錬抄」同年四月一二日条)、同時に採銅所が設けられた。鎌倉期にもわずかに銅を産出していた形跡がある。採銅所はやがて一般の庄園として壬生官務家の所領となるが、壬生家某申状草案(壬生家文書)には能勢郡内の採銅所東郷・西郷とともに「多田庄内槻並村金山下地」と記されている。壬生官務家の管轄する槻並(つくなみ)村(現猪名川町)に金山が置かれていたことは注目される。「言経卿記」天正一六年(一五八八)九月一〇日条に「多田郷銀山」とみえ、冷泉為満が見物に来て「此比出来」の山があると記される。文亀―永正年間(一五〇一―二一)山下(やました)(現川西市)の銅屋新右衛門が真吹法の山下吹を考案したという所伝があるが、多田銀銅山の採掘に伴って笹部(ささべ)村(現川西市)の集落から離れた同村内に吹場として山下町、鉱山関連者の居住地として下財(げざい)屋敷(現川西市)が置かれたのは天正二年頃とされることから、検討を要する。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by