多紀元堅(読み)たきげんけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「多紀元堅」の意味・わかりやすい解説

多紀元堅
たきげんけん
(1795―1857)

江戸時代の漢方医。多紀元簡(げんかん)の五男。字(あざな)は亦柔(えきじゅう)、茝庭(さいてい)また三松(さんしょう)と号した。幼名は綱之進、長じて安叔(あんしゅく)、のち元堅(「もとかた」とも読む)と改めた。元簡の後は三男元胤(もとたね)(1789―1827)が継ぎ、元堅は分家して矢ノ倉の多紀家と称した。1840年(天保11)法印となり、楽真院と称し、1853年(嘉永6)楽春院と改め、安政(あんせい)4年2月14日没。著書は『傷寒広要(しょうかんこうよう)』『雑病広要』『傷寒論述義』『薬治通義(やくじつうぎ)』『時還読我書(じかんどくがしょ)』『診病奇侅(しんびょうきがい)』など多く、また『備急千金要方(びきゅうせんきんようほう)』『医心方(いしんほう)』などを校刊した。

矢数道明

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朝日日本歴史人物事典 「多紀元堅」の解説

多紀元堅

没年:安政4.2.14(1857.3.9)
生年寛政7(1795)
江戸後期の幕府医官。字は亦柔,号は〓庭,三松。幼名は鋼之進,のち安叔。元簡の第5子で,はじめ浅草に住み,のち日本橋に邸を賜る。元簡の家督は兄元胤が継ぎ,元堅は別に一家(多紀矢の倉家)を興した。天保2(1831)年医学館講書,同6年将軍徳川家斉を拝診,翌年奥医師,法眼。同11年法印。弘化2(1845)年将軍家慶の御匙(侍医)。父の考証学学風を継いで善本医籍の収集,校訂,復刻に努め,渋江抽斎,森立之,小島尚真(宝素)らの考証医学者を育てる。彼らの研鑽は特に書誌学の面において中国をはるかに凌ぐ成果を生んだ。<著作>『傷寒論述義』『金匱要略述義』『素問紹識』『薬治通義』『傷寒広要』『雑病広要』

(小曾戸洋)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「多紀元堅」の解説

多紀元堅 たき-もとかた

1795-1857 江戸時代後期の医師
寛政7年生まれ。多紀元簡(もとやす)の5男。幕府の奥医師。分家して矢ノ倉の多紀家と称する。「医心方」など古典医書の校訂に力をつくし,蘭方には反対した。安政4年2月14日死去。63歳。幼名は鋼之進。字(あざな)は亦柔。通称は安叔。号は茝庭。著作に「傷寒論述義」「素問紹識」など。

多紀元堅 たき-げんけん

たき-もとかた

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「多紀元堅」の意味・わかりやすい解説

多紀元堅
たきげんけん

[生]寛政7(1795)
[没]安政4(1857)
江戸時代後期の医師。字は亦柔,苣庭と号した。天保2 (1831) 年医学館講書を拝命,同6年奥詰医師,翌年奥医師,法眼となり,同 11年に法印,お匙見習,同 14 (43) 年お匙となった。『傷寒論述義』ほか多くの著書がある。

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