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多紀元簡 たきげんかん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

多紀元簡
たきげんかん

[生]宝暦5(1755)
[没]文化7(1810)
江戸時代後期の医師。字は廉夫,桂山または櫟窓と号した。寛政2 (1790) 年に奥医師となり,法眼に叙せられた。同6年お匙見習,11年には家を継いでお匙となった。『素問識』ほか多数の著書がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

多紀元簡 たき-もとやす

1755-1810 江戸時代中期-後期の医師。
宝暦5年生まれ。多紀元徳(もとのり)の長男。父に医を,井上金峨に漢学をまなび,幕府の奥医師,徳川家斉(いえなり)の侍医となる。医書の収集,校訂,復刻につとめ,考証派の学風を確立した。文化7年12月2日死去。56歳。幼名は金松。字(あざな)は廉夫。通称は安清,安長。号は桂山,櫟窓。著作に「傷寒論輯義」「素問識」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

多紀元簡
たきげんかん
(1755―1810)

江戸時代の漢方医。「もとやす」とも読み、多紀元悳(げんとく)の長男。字(あざな)は廉夫(れんぷ)、通称安長(あんちょう)、桂山(けいざん)また櫟窓(れきそう)と号し、その書斎を祖先の徳を述べ修むるの意をもって聿修堂(いっしゅうどう)と名づけた。博学にして36歳で老中松平定信(さだのぶ)に抜擢(ばってき)されて侍医法眼となり、1799年(寛政11)11代将軍徳川家斉(いえなり)の侍医御匙(おさじ)となった。1801年(享和1)医官の選考に関してその非を論じたため、上旨に逆らうの罪を得て奥医師を罷免され、100日の閉居を命ぜられた。しかし医学館督事として後進を指導し、考証学派の頂点にたち、名人安長の名を得た。文化(ぶんか)7年12月2日没。著書に『素問識(そもんしき)』『霊枢識』『傷寒論輯義(しょうかんろんしゅうぎ)』『金匱玉函(きんきぎょくかん)要略輯義』『脈学輯要』『医(いしょう)』『観聚方要補(かんしゅうほうようほ)』『救急選方』『櫟窓類抄』『麻疹(ましん)心得』など。『医略抄』の校刊もある。[矢数道明]

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世界大百科事典内の多紀元簡の言及

【本草和名】より

…平安後期の《医心方》第1巻の諸薬和名は本書の引用である。刊本としては,多紀元簡(たきもとやす)が江戸幕府紅葉山文庫に古写本を発見し,諸書を参照して校訂を加え刊行した1796年(寛政8)刻本(1802(享保2)市販)の上下2冊本があり,それに訂正を加えた一本を底本とした《続群書類従》本があるが,それぞれ若干の相違があって,原形を決める復元定本はまだ刊行をみない。【宗田 一】。…

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