朝日日本歴史人物事典 「多羅尾光雅」の解説
多羅尾光雅
生年:弘治1(1555)
安土桃山・江戸時代前期の武将。光俊の3男。初名光久。作兵衛,久八郎。父光俊のとき織田信長に仕え,本能寺の変においては徳川家康の「伊賀越え」の先導として父子共に奔走した。これにより山城国(京都府)醍醐,山科などに所領を給わる。のち,豊臣秀吉に仕えたが領地は没収された。天正19(1591)年,再度知行を得,近江国甲賀郡信楽(滋賀県信楽町)に3800石を治める(のち,兄光太に1500石を割譲)。関ケ原の戦には,徳川家康方の筒井定次配下で戦功を立て,子光重より寄合に列した。
(宇野日出生)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報