フランスの詩人。〈プレイヤード〉詩派の中心人物。フランス中部バンドーム近傍の小貴族の家に生まれる。イタリア戦争に従軍しルネサンスの文物に触れた父ルイは彼を宮廷に入れ,教養ある貴族に育成しようとしたが,病を得て詩の道を志し,1547年以降,学友バイフとともにパリのコクレ学寮でギリシア語学者ドラの指導のもとに人文学の研究,詩作を始める。彼は同志とともに,古典およびイタリアの詩作品を模範としてフランス語の表現力を高め,詩の革新を実現することを主張するグループ〈部隊〉(ラ・ブリガード)をつくり,のちにそのうちの7名を〈プレイヤード〉と名づける。彼らの理論的宣言はデュ・ベレーの《フランス語の擁護と顕揚》(1549)によって行われたが,ロンサールはその《オード集Odes》(1550)をもって実際の作例として世に示した。すなわち中世のロンドーrondeau,バラードなどの常套的な規制の多い形式を排してピンダロス,ホラティウスに範をとった簡明な詩型によって人生,自然,神話,歴史を多様かつ自由に歌う。また《恋愛詩集Les amours》(1552)では,ペトラルカ風の十四行詩(ソネ)によって実在の女性カッサンドルへの感情を表現する。《続恋愛詩集》(1555-56)ではマリーという女性への愛を平明素朴に歌う。その続編ともみられる《エレーヌへのソネSonnets à Hélène》(1578)は宮廷の女性に対する老境に入った詩人の心境を描いて,ルネサンスの女性賛美の最後の完成された姿を示す。ロンサールは多様なジャンルで大量の詩作を行っており,哲学的・宇宙誌的主題による長詩の試みを収めた《賛歌集》(1555),宗教的対立の時代のなかに立つ王家の立場を擁護してプロテスタント派を論難する長編論説詩《現代の悲惨を論ず》(1562),トロイア人の子孫がフランスを建国するという,ウェルギリウスの《アエネーイス》を模した構想の長編叙事詩《フランシアード》(1572。最初の約6000行のみ)などがそのうちとくに注目される。彼は数度にわたって作品集を編み,新詩編を追加し,また入念な加筆訂正の作業を行っている。彼は王室付きの詩人として十分な食禄を得ていたが,1574年の国王シャルル9世の死以後は与えられた修道院に引退し生涯を終える。彼は詩人を,霊感を受けて感動するみずからの心情を最大限の言語と文体の練磨,くふうによって詩作品として表現する使命を帯びた者とし,その自発的な創出の行為に高い価値を与えた。古代および先進の文芸作品の模倣はその勉学の補助としてのみ肯定される。これらはまさにユマニスム,新プラトン主義,レトリックの理論を結合する立場であって,ルネサンスの詩論の到達点をなし,それを彼の豊富な実作品が証拠立てている。彼に引き続くバロックの詩人たち,また古典派の詩人たちも,彼に影響されるところは大きく,フランスの近代詩への道筋もそこから開けたのであった。
執筆者:荒木 昭太郎
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フランスの詩人。プレイアード派の首領。バンドモア地方の貴族の末子。イタリア戦争に従軍し、ルネサンスの美に触れた父により異教的雰囲気のなかに育てられ、武人を夢みて宮廷入りしたが、病で難聴となったため剃髪(ていはつ)(1543)、僧禄(そうろく)を得る。ユマニストのジャン・ドラJean Dorat(1508―88)の教えの下、バイフ、デュ・ベレーなどとプレイアード派の前身「部隊(ブリガード)」brigadeを形成、フランス語、フランス詩の改革を目ざす。従来のフランスにない高度の叙情を示す『オード四部集』(1550)、イタリアの血を引くカッサンドルを歌いフランスにソネットを定着させた『恋愛詩集』(1552)で名声を確立。アンジューの田舎(いなか)娘マリを歌うくだけた『続恋愛詩集』(1555)、『新続恋愛詩集』(1556)と壮大な哲学詩『賛歌集』(1555~56)を並行して発表。宗教戦争時代にはカトリック陣営を代表し『フランス国民への訓戒』(1562)、『当代の惨禍を論ず』(1563)で新教徒と論戦し、平和を説き、フランス建国の叙事詩『フランシアード』(未完)にも着手。晩年の恋を歌う『エレーヌへのソネット』(1578)以後は宮廷を去り、トゥール近郊の小修道院で没す。ヨーロッパ最大の叙情詩人と仰がれ、豊かな叙情を導入、節度ある韻律を確立するとともに、詩人は神のことばを伝える天職と主張し、旧来の詩観を一新したが、死後は古典主義者から抹殺され、ロマン派の勃興(ぼっこう)によって復権された。
[高田 勇]
『井上究一郎訳『ロンサール詩集』(岩波文庫)』▽『窪田般彌・高田勇訳『オード集(抄)』(『世界名詩集大成2』所収・1960・平凡社)』
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1524~85
フランス・ルネサンス最大の詩人。ヴァンドーム近郊に生まれ,七星詩派の頭主。古典文学を範とし,広範囲の詩作を通じて,フランス詩に清新さを,フランス語に自由で豊かな表現を与えた。
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…しかしこれらは17世紀フランスのルイ14世の宮廷に比べれば,擬似的宮廷にすぎない。フランスでは16世紀のフランソア1世以来王権による文人芸術家の保護が盛んになり,ピエール・ド・ロンサールをはじめとする宮廷詩人が活躍したが,ルイ14世によって中央集権国家が確立するや,文化政策も王権主導により強力に推進され,文芸の庇護はあくまで国王中心に,王立アカデミーや作家への国王年金制度の形に統合されてゆく。また王権誇示のための華麗な宮廷生活には,建築家,画家,音楽家とともに作家が動員され,とりわけ演劇は王の愛好するジャンルとして隆盛をみた。…
…とりわけ16世紀後半に入って,ギリシア・ラテンの古典詩に範を求め,豊かなフランス語の新生を理想に掲げるプレイヤード(詩派)の台頭により,詩と音楽の緊密な結合が謳われるようになる。一派の領袖ロンサールは,本来,詩が歌われるべきものであることを繰り返し説き,自らの《恋愛詩集Les amours》(1552)巻末にジャヌカンらによる作曲の実例を添え,収録の全詩がその実例のいずれかに則して歌えることを示し,分類している。また,同派のJ.A.deバイフが1570年にシャルル9世の勅許を得て音楽家クールビルJoachim Thibault de Courville(?‐1581)とともに創設した〈詩と音楽のアカデミーAcadémie de Poésie et de Musique〉では,古典詩法にならって音節の長短をそのまま長短の音符に移そうとする〈韻律音楽musique mesurée à l’antique〉の試みがなされた。…
…フランス,ルネサンス期の詩派。1540年代の末期,パリの学寮で人文学の研究,詩作を行い始めた若い学徒たちが,ロンサールを中心に詩の革新を志すグループ〈部隊(ラ・ブリガード)〉を形成したが,ロンサールはそのうち7名を選んで〈プレイヤード〉と名付けた。構成に変動はあるが,通常,彼のほかデュ・ベレー,バイフ,ジョデル,チヤール,ドラ,ベローの名があげられる。…
※「ロンサール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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