朝日日本歴史人物事典 「大久保忠佐」の解説
大久保忠佐
生年:天文6(1537)
安土桃山・江戸前期の大名。松平家譜代の家臣大久保忠員の次男。母は右大臣三条西公条の娘。通称弥八郎,のち治右衛門を称した。幼時から徳川家康に仕え,弘治1(1555)年の尾張蟹江城の戦,永禄6(1563)年の三河一向一揆との戦をはじめ,家康の主な戦闘にはほとんど従軍している。天正18(1590)年の家康関東移封にともない,上総国茂原・高師・木崎で5000石を与えられている。関ケ原の戦では徳川秀忠軍に属し,慶長6(1601)年,駿河沼津城2万石の大名となった。子どもがなく,弟の彦左衛門忠教を養子にしようとしたが断わられ,改易となった。
(小和田哲男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報