ロマノフ朝(読み)ロマノフちょう(英語表記)Романовы/Romanovï

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロマノフ朝」の意味・わかりやすい解説

ロマノフ朝
ロマノフちょう
Romanovy; Romanov Dynasty

1613~1917年ロシアを統治した王朝名。史料的にはっきりしているロマノフ家の最初の先祖は,14世紀初め頃イワン1世 (カリタ) の時代のモスクワ大公国の大貴族 (ボヤール ) アンドレイ・イワノビッチ・コブイラである。 1547年にロマン・ユーリエビッチの娘アナスターシアがイワン4世 (雷帝)と結婚し,ここに初めて王家縁組ができるとともに,その息子たちの代からロマノフを姓とするようになった。動乱時代が終る 1613年ゼムスキー・ソボール (全国議会) においてミハイル・ロマノフ (在位 1613~45) がロマノフ家の初代のツァーリに選ばれ,ここにロマノフ朝が始る。ロマノフ朝初期のうちは,帝位は男系の長子,もしくは,ツァーリに男系の長子がいない場合には近親者の男系の最年長者が継承し,アレクセイ1世 (在位 45~76) ,フョードル3世 (在位 76~82) がツァーリとなった。 82~96年にいたる間はソフィヤ・アレクセーブナの摂政時代 (82~89) とイワン5世とピョートル1世 (大帝) の共同統治時代 (82~96) を迎えた。ピョートル1世の治世 (89~1725年実権を掌握) は,ロシア帝国としてヨーロッパの列強に加わり,近代国家としての第1歩をしるした。またピョートルは元老院よりインペラートル (皇帝) の称号を受け,君主に後継者指名の権利のあることを明らかにしたが,この権利を行使せずに没したため,正統な継承者がはずされ,帝位が政争の具とされ,ロマノフ朝の一時的衰退を招いた。しかしエカテリーナ2世 (大帝〈在位 1762~96〉) のような英明女帝が出現し,彼女の治世はロシア史の一つの転換期となった。 1797年パーベル1世 (在位 96~1801) によって帝位継承は男系の男子をもってすることが決定されると,以後ロシアには女帝が出現しなくなった。その後アレクサンドル1世 (在位 01~25) ,ニコライ1世 (在位 25~55) ,アレクサンドル2世 (在位 55~81) ,アレクサンドル3世 (在位 81~94) ,ニコライ2世 (在位 94~1917) と帝位は継承されたが,専制政治を掲げて時代に適合することができないまま,1917年の革命でニコライ2世が退位し,ロマノフ朝支配は終りを告げた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロマノフ朝」の意味・わかりやすい解説

ロマノフ朝
ろまのふちょう
Романовы/Romanovï

ロシアの王朝(1613~1917)。ロマノフ家は、イワン4世(雷帝)の最初の妃(きさき)アナスタシアの兄弟ニキタ・ロマノビチを始祖とするが、その祖先は14世紀前半のモスクワ貴族家門にまでさかのぼる。1598年フョードル帝の死により、リューリク朝は断絶するが、それに続く動乱時代のあと1613年、全国会議はミハイル・ロマノフ(在位1613~45)をツァーリに選出した。王朝の基盤が固まったのはその子アレクセイ(在位1645~76)のときで、その子ピョートル1世(在位1682~1725)時代にロシアは急速な近代化を遂げ、北方戦争(大北方戦争ともいう)勝利後の1721年に国名をロシア帝国とした。その後、エカチェリーナ1世(在位1725~27)、アンナ(在位1730~40)、エリザベータ(在位1741~62)、エカチェリーナ2世(在位1762~96)と女帝が続出したが、パーベル(在位1796~1801)が即位するに及んで、帝位は男子に限られるようになった(1797)。だが、ロマノフ家の男系は、すでにピョートル2世(在位1727~30)で、女系もエリザベータでとだえており、後者の死後当主となったのは、ホルシュタイン公フリードリッヒの子ピョートル3世(在位1762、母はピョートル1世の子アンナ)である。彼は即位後まもなくこれもドイツ人である妻のエカチェリーナ2世によって追放されるが、以後は両者の子孫が代々帝位についた。ロマノフ朝ロシアは、ヨーロッパの国際政治を左右する大帝国であったが、内にあっては農奴制を長く維持し(1861年まで)、農奴解放後も激化する革命運動に悩まされた。アレクサンドル2世(在位1855~81)の暗殺後、アレクサンドル3世(在位1881~94)、ついでニコライ2世(在位1894~1917)の政府は弾圧を強化したが、日露戦争の敗北、1905年の革命、第一次世界大戦などにより体制は根幹から揺らぎ、1917年の二月革命により、ニコライ2世は退位し、300年間続いたロマノフ朝は崩壊した(同年3月3日)。皇帝一家は翌年7月、反乱を起こしたチェコ軍団が接近するなかで、エカチェリンブルグで処刑された。

[栗生沢猛夫]


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