ロマノフ朝(読み)ロマノフチョウ(その他表記)Romanov

翻訳|Romanov

デジタル大辞泉 「ロマノフ朝」の意味・読み・例文・類語

ロマノフ‐ちょう〔‐テウ〕【ロマノフ朝】

Romanovロシアの王朝。14世紀ごろモスクワ大公に仕えたコビラを祖とし、1613年ミハイル=ロマノフツァーリ(皇帝)に即位して創始。1917年ロシア革命ニコライ2世が退位して崩壊した。

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精選版 日本国語大辞典 「ロマノフ朝」の意味・読み・例文・類語

ロマノフ‐ちょう‥テウ【ロマノフ朝】

  1. ( ロマノフはRomanov ) ロシアの王朝(一六一三‐一九一七年)。一六一三年ミハイル=ロマノフが即位して王朝が始まり、啓蒙専制君主ピョートル一世・エカテリーナ二世などの英主を出したが、ツァーリズムによる独裁専制が保たれ、一九一七年の革命でニコライ二世が退位して崩壊した。

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改訂新版 世界大百科事典 「ロマノフ朝」の意味・わかりやすい解説

ロマノフ朝 (ロマノフちょう)
Romanov

1613年から1917年までロシアを支配した王朝。即位した皇帝は18人。9世紀からロシアに君臨してきたリューリク朝が1598年に断絶し,スムータとよばれる混乱期となったが,1613年7月,ゼムスキー・ソボルによって16歳のミハイル・ロマノフMikhail Romanov(1596-1645)がツァーリに選ばれ,ロマノフ朝が成立した。ロマノフ家は古くからの名門貴族で,16世紀以来ロマノフを名のり,リューリク朝のツァーリ,イワン4世の妃アナスタシアはその出身で,彼女の甥の子がミハイルである。

 18人の皇帝のなかで,大帝といわれるのはピョートル1世エカチェリナ2世の2人だけであるが,300年のロマノフ朝の歴史は,この2人の治世とその前後の3時期に分けられるであろう。ピョートル1世までは王朝の創設期であり,基礎がつくられた時期である。ピョートル1世は,はじめ異母兄イワン5世とともに皇帝となったが,のち単独で帝位を占め,広範囲の改革を強行して,ロシアを一新させ,1721年,〈全ロシアのインペラートル(皇帝)〉を名のり,ロシアは正式にロシア帝国となった。ピョートル1世の死(1725)からエカチェリナ2世の即位(1762)までは特異な時期で,わずか37年間に6人の皇帝が在位したが,3人が女性,男性のうち2人が幼児(ピョートル2世は即位時に12歳,イワン6世は生後3ヵ月)で,のこり1人のピョートル3世は異常性格者であり,親から子へという帝位継承がまったくない。これはピョートル1世が1722年に制定した帝位継承法が,君主に遺言による後継者指名権を与えていたためであり,また彼の改革によって特権を奪われた貴族が,皇帝をあやつって権力の回復をはかったからである。エカチェリナ2世の死後の96年に即位したパーベル1世はただちにこの継承法を廃し,父から順次年長の男児に,男児のない場合は年長の弟にという継承順位の原則を定めたので,これ以後,混乱はおこらなかった。またピョートル3世は,女帝エリザベータの姉で神聖ローマ帝国のホルシュタイン公に嫁したアンナの子であるため,厳密にはピョートル3世以後をロマノフ・ホルシュタイン・ゴットルプ朝という。パーベル1世の短い治世からロシア革命までの百数十年間,ロマノフ家は多くの土地,工場,鉱山,宮殿,美術品などを所有する世界屈指の大富豪であり,アレクサンドル2世時代のように改革運動の先頭に立つこともあったが,国内の改革や革命の動きに対しては弾圧をもってのぞみ,国際的にはロシアはヨーロッパ反動の牙城と考えられていた。

 最後の皇帝ニコライ2世は,1917年の二月革命の際,弟のミハイルに譲位したが,ミハイルは即位をためらい,3月4日,ニコライの退位勅書とミハイルの即位拒否の勅書が同時に公表され,ロマノフ朝は事実上消滅した。政権を握った臨時政府は,将来,新憲法によって帝政を復活する可能性もありうるとの立場をとったが,状況におされて9月に正式に共和国を宣言した。ニコライ2世は8月に家族とともにシベリアに移され,18年7月16日深夜エカチェリンブルグで銃殺された。ロマノフ朝ではこのほか,アレクサンドル2世がテロリストに暗殺されたり,イワン6世,ピョートル3世,パーベル1世がクーデタによって廃位,殺害されるなど,暗いエピソードが多い。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロマノフ朝」の意味・わかりやすい解説

ロマノフ朝
ロマノフちょう
Romanovy; Romanov Dynasty

1613~1917年ロシアを統治した王朝名。史料的にはっきりしているロマノフ家の最初の先祖は,14世紀初め頃イワン1世 (カリタ) の時代のモスクワ大公国の大貴族 (ボヤール ) アンドレイ・イワノビッチ・コブイラである。 1547年にロマン・ユーリエビッチの娘アナスターシアがイワン4世 (雷帝)と結婚し,ここに初めて王家と縁組ができるとともに,その息子たちの代からロマノフを姓とするようになった。動乱時代が終る 1613年ゼムスキー・ソボール (全国議会) においてミハイル・ロマノフ (在位 1613~45) がロマノフ家の初代のツァーリに選ばれ,ここにロマノフ朝が始る。ロマノフ朝初期のうちは,帝位は男系の長子,もしくは,ツァーリに男系の長子がいない場合には近親者の男系の最年長者が継承し,アレクセイ1世 (在位 45~76) ,フョードル3世 (在位 76~82) がツァーリとなった。 82~96年にいたる間はソフィヤ・アレクセーブナの摂政時代 (82~89) とイワン5世とピョートル1世 (大帝) の共同統治時代 (82~96) を迎えた。ピョートル1世の治世 (89~1725年実権を掌握) は,ロシア帝国としてヨーロッパの列強に加わり,近代国家としての第1歩をしるした。またピョートルは元老院よりインペラートル (皇帝) の称号を受け,君主に後継者指名の権利のあることを明らかにしたが,この権利を行使せずに没したため,正統な継承者がはずされ,帝位が政争の具とされ,ロマノフ朝の一時的衰退を招いた。しかしエカテリーナ2世 (大帝〈在位 1762~96〉) のような英明な女帝が出現し,彼女の治世はロシア史の一つの転換期となった。 1797年パーベル1世 (在位 96~1801) によって帝位継承は男系の男子をもってすることが決定されると,以後ロシアには女帝が出現しなくなった。その後アレクサンドル1世 (在位 01~25) ,ニコライ1世 (在位 25~55) ,アレクサンドル2世 (在位 55~81) ,アレクサンドル3世 (在位 81~94) ,ニコライ2世 (在位 94~1917) と帝位は継承されたが,専制政治を掲げて時代に適合することができないまま,1917年の革命でニコライ2世が退位し,ロマノフ朝支配は終りを告げた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロマノフ朝」の意味・わかりやすい解説

ロマノフ朝
ろまのふちょう
Романовы/Romanovï

ロシアの王朝(1613~1917)。ロマノフ家は、イワン4世(雷帝)の最初の妃(きさき)アナスタシアの兄弟ニキタ・ロマノビチを始祖とするが、その祖先は14世紀前半のモスクワ貴族家門にまでさかのぼる。1598年フョードル帝の死により、リューリク朝は断絶するが、それに続く動乱時代のあと1613年、全国会議はミハイル・ロマノフ(在位1613~45)をツァーリに選出した。王朝の基盤が固まったのはその子アレクセイ(在位1645~76)のときで、その子ピョートル1世(在位1682~1725)時代にロシアは急速な近代化を遂げ、北方戦争(大北方戦争ともいう)勝利後の1721年に国名をロシア帝国とした。その後、エカチェリーナ1世(在位1725~27)、アンナ(在位1730~40)、エリザベータ(在位1741~62)、エカチェリーナ2世(在位1762~96)と女帝が続出したが、パーベル(在位1796~1801)が即位するに及んで、帝位は男子に限られるようになった(1797)。だが、ロマノフ家の男系は、すでにピョートル2世(在位1727~30)で、女系もエリザベータでとだえており、後者の死後当主となったのは、ホルシュタイン公フリードリッヒの子ピョートル3世(在位1762、母はピョートル1世の子アンナ)である。彼は即位後まもなくこれもドイツ人である妻のエカチェリーナ2世によって追放されるが、以後は両者の子孫が代々帝位についた。ロマノフ朝ロシアは、ヨーロッパの国際政治を左右する大帝国であったが、内にあっては農奴制を長く維持し(1861年まで)、農奴解放後も激化する革命運動に悩まされた。アレクサンドル2世(在位1855~81)の暗殺後、アレクサンドル3世(在位1881~94)、ついでニコライ2世(在位1894~1917)の政府は弾圧を強化したが、日露戦争の敗北、1905年の革命、第一次世界大戦などにより体制は根幹から揺らぎ、1917年の二月革命により、ニコライ2世は退位し、300年間続いたロマノフ朝は崩壊した(同年3月3日)。皇帝一家は翌年7月、反乱を起こしたチェコ軍団が接近するなかで、エカチェリンブルグで処刑された。

[栗生沢猛夫]


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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ロマノフ朝」の解説

ロマノフ朝(ロマノフちょう)
Romanov

1613~1917

ロシアの王朝。1598年リューリク朝が断絶したあとの動乱時代をへて,ポーランドの虜となっていた大貴族フョードル・ロマノフ(のちの総司教フィラレート)の子ミハイル・ロマノフが,ゼムスキー・サボールツァーリに選ばれ,1613年に即位した。ここにロマノフ朝が始まった。啓蒙専制君主のピョートル1世エカチェリーナ2世ナポレオンに勝利したアレクサンドル1世などの英王を出し,時代に即応する能力を持った反面,農奴制と専制政治の代名詞としてヨーロッパ中にその名を知られた。1917年の二月革命で終焉した。

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百科事典マイペディア 「ロマノフ朝」の意味・わかりやすい解説

ロマノフ朝【ロマノフちょう】

ロシアの王朝(1613年―1917年)。リューリク朝と姻戚(いんせき)関係にあり,同王朝断絶後の混乱を経て即位したミハイル・ロマノフが始祖。以後ピョートル1世,エカチェリナ1世等の出現で,農奴制と専制政治を確立し,また国土を拡大し,ロシア帝国最盛期を現出。ロシア革命で倒され,王家の一族は1918年処刑。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ロマノフ朝」の解説

ロマノフ朝
ロマノフちょう
Romanov

1613〜1917
ロシアの王朝
動乱時代末期の1613年,イヴァン4世の血統を引くミハイル=ロマノフが貴族の全国会議によってツァーリに選出され,以来1917年のロシア革命でニコライ2世が退位するまで,ロシアを約300年間統治した。農奴制を基礎に,地主貴族を支柱として,ギリシア正教会の首長をかねるツァーリが専制絶対主義をしいた。この間,対外的にはバルト海・中東・シベリアに領土を拡大し,ロシアは世界の一大強国に成長した。

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世界大百科事典(旧版)内のロマノフ朝の言及

【ロシア帝国】より

…正式には1721年にピョートル1世(大帝)が皇帝(インペラートルimperator)の称号をとってから,1917年の二月革命でニコライ2世が退位するまでをいう。帝室はロマノフ朝で,その首都はペテルブルグ。東方正教(東方正教会)を国教とし(ロシア正教会),ユリウス暦を用いていた。…

※「ロマノフ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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