大井田経隆(読み)おおいだ・つねたか

朝日日本歴史人物事典 「大井田経隆」の解説

大井田経隆

生年生没年不詳
鎌倉後期の武士越後大井田郷(新潟県十日町市中条)の住人。義隆の子。新田氏の一族正慶2/元弘3(1333)年5月8日,上野国新田郡生品神社で新田義貞挙兵したとき,越後から里見,鳥山,田中,羽川の人々2000騎と共に同日夕刻に義貞のもとに参着した。なぜに,かくも早く到着できたのかとの義貞の問いに,経隆は,「天狗山伏一人,越後ノ国中ヲ一日ノ間ニ触廻」(『太平記』)ったからであると答えた。鎌倉での合戦の際,化粧坂から侵入したが,その後の消息は不詳である。

(佐藤和彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大井田経隆」の解説

大井田経隆 おおいだ-つねたか

?-? 鎌倉-南北朝時代武将
正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めに,越後(えちご)(新潟県)から同族の里見,鳥山,羽川,田中氏らとともに参戦稲村ケ崎干潮を利用して鎌倉にはいり,北条高時をやぶった。その後の消息は不明。

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