大伝馬町一丁目(読み)おおでんまちよういつちようめ

日本歴史地名大系 「大伝馬町一丁目」の解説

大伝馬町一丁目
おおでんまちよういつちようめ

[現在地名]中央区日本橋本町にほんばしほんちよう二―三丁目

鉄炮てつぽう町の南にあり、西は本町四丁目、南は堀留ほりどめ町一丁目。東西に続く本町通の両側町。国役町。天正一八年(一五九〇)の徳川氏関東入部に際し、武蔵国住人馬込勘解由・高野新右衛門・小宮善右衛門らは駄馬人足を率いて出迎え、これを賞した家康から道中伝馬役を命ぜられ、呉服ごふく橋御門内宝田たからだ村に継飛脚給米一二石余を給せられた。慶長一一年(一六〇六)の江戸城拡張に伴い伝馬役所は辰ノ口たつのくちから郭外へ移され、一ヵ所は奥州への街道筋であった本町通沿いに代地を与えられて大伝馬町となり、もう一ヵ所は京橋の南伝馬みなみでんま町となった。この二町は両伝馬町と称され、五街道への継立を行った。また小伝馬こでんま町を加え三伝馬町とも称された(御伝馬方旧記)。伝馬役は大伝馬町が月の上旬(一―一五日)、南伝馬町が月の下旬を担当した。朱印伝馬役担当期間以外は賃伝馬役を勤めた(撰要永久録)。馬込家は伝馬役を世襲で担当するとともに問屋場も兼ね、邸内には旧地から鎮守宝田稲荷(現宝田神社)も移転した(武江図説)。承応二年(一六五三)には両伝馬町助役が定められ、駄賃を取り一年に一疋ずつ馬を出す四九町村が指定されたが、万治三年(一六六〇)から一年に三疋ずつ両伝馬町へ出すことと改められた(万治三年「駄賃馬御座候所覚」御伝馬方旧記)。助伝馬は天和二年(一六八二)には四六ヵ村・六四六疋(「助馬相勤候馬高并馬持名前書上」同書)、元禄一三年(一七〇〇)には二五ヵ所・七〇〇疋となっていた(「助伝馬所付覚」同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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