大合戦橋
おんがせばし
[現在地名]口和町大月・向泉
西城川の支流萩川の上流、竹地谷川に架かる橋で、泉氏の居城黒岩山城があった黒岩山の東方約一キロにある。
天文二二年(一五五三)恵蘇郡本郷村(現庄原市)の甲山城に拠る山内隆通や、三谿郡三若村(現三次市)の旗返山城に拠る江田隆連ら備後北部の勢力が尼子氏に味方したのを機に、尼子晴久は備後北部攻略のため同年四月出雲国仁多郡横田(現島根県仁多郡横田町)に出陣し、先鋒は甲山に到着した。毛利元就に従っていた三次郡畠敷村(現三次市)の比叡尾山城の三吉氏は毛利氏に救援を求め、毛利元就・隆元は五月一六日には和知(現三次市)まで出陣したが、すでに湯木村の釜峰山城は尼子方に属しており、尼子軍を後方から撃つことはできなかった(天文二二年五月二四日付毛利元就同隆元連署書状「譜録」所収渡辺三郎左衛門家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の大合戦橋の言及
【口和[町]】より
…宮内川流域は砂鉄の産地で,鉄穴(かんな)(砂鉄採取地)跡が多数残る。戦国時代の毛利氏と尼子氏の古戦場でもあり,竹地川に架かる大合戦(おんがせ)橋の名は,この合戦に由来する。【清水 康厚】。…
※「大合戦橋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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