屋代郷
やしろごう
「和名抄」高山寺本に「屋代」と記し訓を欠くが、流布本に「也之呂」と訓じているので「やしろ」とよむべきであろう。
屋代は社であることは通説となっているが、その社を「日本地理志料」は「粟狭ノ神社在
此、郷名蓋取
於
此」とし、その郷域は、粟佐・杭瀬下・桜堂の諸集落に比定する。「大日本地名辞書」はその範囲を、旧屋代町及び雨宮県村に想定し「更級埴科地方誌」は「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月の条に「加納屋代四ケ村」とあり、建武元年(一三三四)六月一六日付の雑訴決断所牒(市河文書)に「屋代下条一分地頭云々」とあるのを引いて、現在加納坊なる地名が屋代東部千曲川寄りに残り、また屋代下条が雨宮(現更埴市雨宮、屋代地区の東北)の北側に残っているので、現屋代地区から東北へ寄った千曲川右岸の地が屋代郷の中心であろうとする。
屋代郷
やしろごう
「和名抄」高山寺本に「屋代」と記し、訓はないが、刊本(慶安元年)には「ヤシロ」と仮名を付す。
平城宮出土木簡に「周防国大嶋郡屋代郷
」とあるのを初見とする。屋代は神を祝い祀る社の意とされ、この社は大畠の瀬戸を望む飯の山の麓に鎮座する大島一宮大多麻根神社(現大島郡大島町)とされる(日本地理志料、防長地名淵鑑)。
屋代郷
やしろごう
「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。「白河古事考」は「今社郷と称する数ケ村あり」、「大日本地名辞書」は「今社村・金山村是なり」とある。近世の社仁井田村は現西白河郡表郷村、社川村は明治二二年(一八八九)一三ヵ村合併による新村名で、現東白川郡棚倉町。
屋代郷
やしろごう
「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、ヤシロであろう。「出雲国風土記」によれば、意宇郡一一郷のうちで郡家の東三九里余に郷長の家があり、郷名は古く社郷で、天津子命が「吾が浄まはり坐さむと志す社」といったことに由来するとし、神亀三年(七二六)屋代郷に改めたという。
屋代郷
やしろごう
「和名抄」所載の郷。同書高山寺本・名博本に記載されるが、東急本にはみえない。訓はヤシロであろう。「出雲国風土記」によれば大原郡八郷の一つで、郡家の北一〇里余に郷長の家があり、地名は所造天下大神が射的場を建てたことに由来し、初め矢代であったが、神亀三年(七二六)屋代に改めたという。
屋代郷
やしろごう
「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、信濃国埴科郡の同名郷に「也之呂」の訓(東急本)がある。郷名は式内社大物忌神社の社に由来するとみられる。
屋代郷
やしろごう
「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。「日本地理志料」は「屋代」は「社」の義で、伊佐須美神社をさすとし、現大沼郡会津高田町域とする。「大日本地名辞書」も「伊佐須美大社の存るが故に、屋代の名を負へる者とす」として「大沼郡高田、南北の地にして(永井野・尾岐・赤沢・藤川・鶴野辺・新田など)、元鶴沼川の左辺の村里を籠めしならん」とする。
屋代郷
やしろごう
「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、信濃国埴科郡の同名郷に「也之呂」の訓(東急本)がある。屋代川を遺名とみて、現東置賜郡高畠町の同川流域を中心とする地域に比定される。周辺には郡司級の首長の墳墓とみられる古墳時代後期の金原古墳をはじめとして原始・古代の遺跡が多く、同町小郡山は最初の置賜郡衙の所在地であったとみられている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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