奄美諸島(読み)あまみしょとう

  • あまみしょとう ‥ショタウ
  • あまみしょとう〔シヨタウ〕

百科事典マイペディアの解説

薩南(さつなん)諸島の南部を占め,北緯29゜付近の奄美大島北端から南西に約200km,北緯27゜付近の与論(よろん)島までの島嶼(とうしょ)群をいう。鹿児島県大島郡をなす。鹿児島県最大の島である奄美大島をはじめ,喜界(きかい)島・加計呂麻(かけろま)島・与路(よろ)島・請(うけ)島・徳之島沖永良部(おきのえらぶ)島与論島などからなる。奄美大島・加計呂麻島・与路島・請島および枝手久(えだてく)島などは,かつて一島であったものが沈水分離したものと考えられている。これらの島々はリアス海岸をなし,地質は徳之島も含め古生層や中生層および旧期火山岩層が帯状に分布する。一方,喜界島沖永良部島,与論島などは隆起サンゴ礁などでおおわれた低平な地形をなす。海域一帯は温帯気候から熱帯気候への漸移帯で,亜熱帯季節風気候ともいわれる。最低気温の月別平均値も10℃を割ることはなく,海の表面水温も一年を通じて20℃内外である。台風の襲来が多い。ビロウ,ガジュマル,アダンなど亜熱帯性植物がよく生育するほか,アマミノクロウサギをはじめ貴重な動物もみられる。奄美大島・徳之島には猛毒をもつハブがいる。 奄美諸島は《日本書紀》に〈海見島〉とみえるなど,古くから海上交通や朝貢・交易などの記事に登場する。15世紀半ば以降には琉球王国の領知下となったとみられるが,1609年の島津氏による琉球侵攻(島津侵入事件)により鹿児島藩直轄領となり,道之島(みちのしま)として把握されることになった。黒糖生産の始まった時期は明らかではないが,17世紀末から18世紀初頭に鹿児島藩による黍作奨励が強まっている。以後,定式買入制・惣買入制という流通政策のもと,サトウキビの単作化を強制された。1879年に大島郡が成立。1946年3月,北部南西諸島米国海軍軍政府本部が奄美大島の名瀬(なぜ)に開庁,米軍軍政下に置かれた。1953年12月,奄美群島返還日米協定が調印され,日本に返還された。現在,定期船が通うほか,ほとんどの島に空港がある。奄美群島国定公園域に指定されている。2010年3月,国土地理院によりその呼称を奄美群島に変更。
→関連項目鹿児島[県]名瀬[市]南西諸島琉球語

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世界大百科事典 第2版の解説

鹿児島県南部,薩南諸島の南半を占める島群。北から奄美大島(または大島,本島),喜界島徳之島沖永良部(おきのえらぶ)島与論島とほぼ列をなし,鳥島(硫黄鳥島,沖縄県具志川村)も含まれる。古くは琉球に属したが1609年(慶長14)以後薩摩藩に支配され,明治以後は鹿児島県大島郡となった。第2次世界大戦後は沖縄のアメリカ軍政府統治下にあったが,1953年12月日本に復帰した。大島支庁が名瀬にある。北緯27~31゜の間にあるため気候は亜熱帯的でソテツ,ビロウ,ガジュマル,アダンなどの亜熱帯樹が茂り民家の庭にもバナナ,パパイヤが実る。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鹿児島市の南方380~580キロメートルの海上に点在する島々。鹿児島県大島郡に属す。奄美群島ともよぶ。南西諸島(琉球列島(りゅうきゅうれっとう))のうち鹿児島市から約380キロメートルの地点(北緯29度付近)にはじまる奄美大島から、さらに約200キロメートル南西に進んだ位置(北緯27度付近)にある与論(よろん)島まで。ここには奄美大島、喜界島(きかいじま)、加計呂麻島(かけろまじま)、与路島(よろじま)、請島(うけじま)、徳之島、沖永良部島(おきのえらぶじま)、与論島がほぼ北東から南西に向かって点在する。奄美大島、徳之島、加計呂麻島、与路島、請島などは古生層、中生層、旧期火山岩層の基盤がそのまま露出し、起伏の大きい地形を示す。一方、喜界島、沖永良部島、与論島では島の大部分が隆起サンゴ礁などで覆われ、起伏の小さい、低い島影の地形を示す。このため、奄美大島、徳之島などの前者のグループでは水系の発達はよく、喜界島などの後者のグループはカルスト地形で、鍾乳洞(しょうにゅうどう)やドリーネなどが多く、表流水系の発達は著しく悪い。奄美大島にある694メートルの湯湾岳(ゆわんだけ)が最高で、徳之島の井之川岳(645メートル)がこれに次ぎ、そのほかの島々では300メートルを超える部分はきわめて少ない。気候は緯度や海流などの影響から終年無霜、亜熱帯性で、ソテツ、アダン、ガジュマルのほか、ハイビスカス、ブーゲンビリアなどの花々がみられる。台風の常襲地帯にもあたっている。これらの自然条件は、各島内の集落立地、交通路、家のつくり、防風垣、用水確保の方法、その他多くの生活や産業などに如実に反映し、個々の島にあう方法がとられている。

 古くは「道の島」として大陸や琉球との交易の要路にあったこれらの島々は、中世初期以来琉球王朝に属していたが、1609年(慶長14)の島津家久(しまづいえひさ)による琉球征服以来、日本領となり薩摩(さつま)藩、そして明治以後、鹿児島県に属している。第二次世界大戦後の約8年間は北緯30度以南の島々はすべてアメリカ軍の軍政下に置かれたため、この諸島も例外ではなく、1953年(昭和28)12月25日の日本復帰まで、十分な戦災復興のための資金援助もないまま放置された状態にあった。これらの事情が重なり、国内の経済社会発展に取り残されてきた。現在もさらに加速された発展過程のなかで、遅れを取り戻すべく港湾、道路、観光施設の充実など懸命の努力が続けられている。大陸、琉球、日本の各文化の接点に位置したこれら諸島には、いまもって言語、風俗、宗教行事、芸能などに各々の影響が入り交じって残存し、独特な地域を形成している。政治、経済の中心は奄美大島の奄美市名瀬(なぜ)地区で、大島支庁が置かれている。

[塚田公彦]


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精選版 日本国語大辞典の解説

鹿児島市南方海上の島々。奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部(おきのえらぶ)島、与論島などから成る。気候は亜熱帯性で、ソテツ・ガジュマルなどが繁茂。特産物に大島紬(つむぎ)、黒砂糖がある。奄美群島。奄美。

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世界大百科事典内の奄美諸島の言及

【薩南諸島】より

…1952年の日本復帰後,3島は三島村,吐噶喇列島は十島(としま)村となった。奄美大島,徳之島,沖永良部島,与論島などを総称して奄美諸島といい,大島郡に属する。【服部 信彦】。…

【琉球】より

…〈南島〉という場合もある。現在の沖縄県の県域を中心に,地理的,文化的には奄美(あまみ)諸島(鹿児島県)をも含む。これらの島々で話される言葉を琉球語(琉球方言)といい,生活文化を琉球文化の名で総称する。…

【琉球征服】より

…7月7日家康は琉球征服の功を賞して島津氏に琉球を与えた。11年9月,島津氏は沖縄諸島以南8万9086石を琉球王府領とし,かつ薩摩への毎年の貢納物を定め,奄美諸島は同氏の直轄地とする仕置を行った。ついで翌10月から14年にかけ薩摩,大隅,日向諸県郡に慶長内検を行い,琉球の土地からの収奪を成立条件とする籾高(もみだか)制に基づく藩体制=外城(とじよう)制度が成立した。…

※「奄美諸島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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