大川博(読み)オオカワ ヒロシ

20世紀日本人名事典 「大川博」の解説

大川 博
オオカワ ヒロシ

昭和期の実業家 東京急行社長;東映社長。



生年
明治29(1896)年12月30日

没年
昭和46(1971)年8月17日

出生地
新潟県西蒲県郡中之口村

学歴〔年〕
中央大学法学部卒

経歴
大正9年鉄道院に入り、鉄道省事務官。「改正会社経理統制令」などの著書が東急社長五島慶太の目にとまり、昭和17年東急に入社、総務局次長、事業部長、26年専務。専務のまま東映社長となり、再建に成功。29年から東映社長に専念、時代劇の黄金時代を築いた。任俠もの、お色気もの、第二東映の設立、2本立て上映システムをつくるなど業界随一の業績を上げた。NETテレビ(現・テレビ朝日)の社長、レジャー産業、球団経営も手がけ、パ・リーグ初代会長、日経連常任理事、映画産業団体連合会会長などを歴任

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大川博」の解説

大川博 おおかわ-ひろし

1896-1971 昭和時代の実業家。
明治29年12月30日生まれ。鉄道省事務官から,五島慶太にスカウトされ,昭和17年東京急行電鉄にはいる。26年東映の社長となり,時代劇映画の黄金時代をきずいた。日本教育テレビ(現テレビ朝日)社長。プロ野球東映フライヤーズを経営した。昭和46年8月17日死去。74歳。新潟県出身。中央大卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「大川博」の解説

大川 博 (おおかわ ひろし)

生年月日:1896年12月30日
昭和時代の実業家。東映社長
1971年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大川博の言及

【東映[株]】より

…1951年,東横映画,大泉映画,東京映画配給の3社が合併して設立。設立当初は3社の負債をかかえて不振であったが,初代社長大川博(1896‐1971)は,徹底した予算主義による製作方式を導入,片岡千恵蔵市川右太衛門の二大剣劇スターを軸にした時代劇映画で経営を軌道にのせた。不調であった現代劇も,1953年には反戦映画《ひめゆりの塔》(今井正監督)が大ヒットし,54年には2本立て興行を実施して,娯楽時代劇と現代劇,あるいは大作時代劇を組み合わせるなど,観客層の増大に成功した。…

【日本映画】より

… 大映では,永田雅一(1906‐85)が戦前の第一映画,新興キネマでの経験に基づき,興行的価値を第一とする映画製作を行って,母もの映画路線と《羅生門》(1950),《雨月物語》(1952),《地獄門》(1953)などの文芸色豊かな王朝ものの大作で業績を安定させた。 戦後に生まれた東映では,大川博(1896‐1971)がかつての鉄道マン時代(鉄道省,東急)の経験をもとに,徹底した営利主義を貫いた。《きけわだつみの声》(1950),《ひめゆりの塔》(1953)の大ヒットによる業績安定のあと,大川博は1954年,〈東映娯楽版〉と名づけた中編時代劇を添えて2本立て興行を開始,時代劇路線を発展させて〈時代劇王国〉東映を築くとともに,映画市場の全収益の半分を東映がいただくと豪語して,60年に第二東映(のちにニュー東映と改称)を発足させるに至った。…

※「大川博」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

グレーゾーン解消制度

個々の企業が新事業を始める場合に、なんらかの規制に該当するかどうかを事前に確認できる制度。2014年(平成26)施行の産業競争力強化法に基づき導入された。企業ごとに事業所管省庁へ申請し、関係省庁と調整...

グレーゾーン解消制度の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android