百科事典マイペディア 「時代劇映画」の意味・わかりやすい解説
時代劇映画【じだいげきえいが】
→関連項目萬屋錦之介
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…作中でお玉がうたう〈間の山節〉は人の世の無常を示すと同時に全巻を貫くモティーフをも現しており〈上求菩提(じようぐぼだい)・下化衆生(げけしゆじよう)〉の具象化としても読める。【尾崎 秀樹】
[映画]
妖剣をふるう盲目の剣客机竜之助の特異な人物像,彼をめぐる多彩な登場人物の流転,波瀾万丈の筋立てなど,あらゆる点で時代劇映画の魅惑をそなえているところから,《大菩薩峠》はこれまでに5度も(本数にして12本)映画化されている。 最初の映画化は日活の《大菩薩峠》二部作(1935‐36)で,監督は稲垣浩(第1部には山中貞雄と荒井良平が応援監督),机竜之助には大河内伝次郎,お浜には入江たか子が扮した。…
…3本の映画はいずれも《新版大岡政談》という題名で,監督は日活版が伊藤大輔,東亜キネマ版が広瀬五郎,マキノ版が二川文太郎である。 このうち,伊藤大輔,大河内伝次郎コンビによる日活版三部作がもっとも好評を博し,ひき続き伊藤監督のトーキー第1作である《丹下左膳》(1933),さらに《丹下左膳・剣戟の巻》(1934)が,同じコンビによってつくられて,大河内伝次郎の演ずる丹下左膳は,時代劇映画のヒーローとして不動の人気を得るに至った。次いで大河内伝次郎が丹下左膳を演じた山中貞雄監督《丹下左膳余話・百万両の壺》(1935)は,林不忘の原作とはかかわりのない別個のストーリーであるという意味の字幕が冒頭につき,市井の厭世家の浪人である丹下左膳を日常的なユーモラスなタッチで描いたいわゆる〈髷をつけた現代劇〉で,スティーブン・ロバーツ監督のアメリカ映画《歓呼の涯》(1932)からヒントを得て換骨奪胎し,大衆的ヒーローの偶像性を否定する自信と話術の才気を痛快に示している。…
…内田吐夢(とむ)監督の時代劇映画(1955)。東映作品。…
…日本の映画俳優。約半世紀にわたる映画人生を時代劇にほぼ徹して生きぬき,第2次世界大戦以前には,眼光鋭く気迫に満ち,ときには鬼気さえ感じさせる時代劇映画のヒーローとして,美男型スターが多いなかで異彩を放ち,戦後には,渋みと風格のある名脇役として活躍した。本名は門田潔人(もんでんきよと)。…
…1951年,東横映画,大泉映画,東京映画配給の3社が合併して設立。設立当初は3社の負債をかかえて不振であったが,初代社長大川博(1896‐1971)は,徹底した予算主義による製作方式を導入,片岡千恵蔵,市川右太衛門の二大剣劇スターを軸にした時代劇映画で経営を軌道にのせた。不調であった現代劇も,1953年には反戦映画《ひめゆりの塔》(今井正監督)が大ヒットし,54年には2本立て興行を実施して,娯楽時代劇と現代劇,あるいは大作時代劇を組み合わせるなど,観客層の増大に成功した。…
…当時,鳴滝の近くの太秦(うずまさ)や嵯峨には,日活,帝キネ,千恵蔵プロ,マキノ,寛寿郎プロの撮影所があり,8人はそれぞれ所属の撮影所は違ったが,お互いにその仕事を助け合った,と脚本家の三村伸太郎は述懐している。 〈梶原金八〉の名で彼らがめざしたものは,時代劇と現代劇が画然と区別されていた当時の〈時代劇映画の窮屈な形式から自由になること〉で,〈せりふは思いきって平明な現代語〉を使い,〈映画の題材に転換をこころみ〉,〈偶像化された英雄主義から,庶民が主体性をもつ〉新しい時代劇を生み出すことであった。山中貞雄監督の《足軽出世譚》(1934),《丹下左膳余話・百万両の壺》《街の入墨者》(ともに1935),《河内山宗俊》《海鳴街道》(ともに1936),稲垣浩監督の《利根の川霧》(1934),《富士の白雪》(1935),山中,稲垣共同監督の《関の弥太ッぺ》(1935),《怪盗白頭巾》(1936),滝沢英輔監督の《晴れる木曾路》《太閤記》(ともに1935),《海内無双》《宮本武蔵》(ともに1936),荒井良平監督の《江戸の春遠山桜》(1936),萩原遼監督の《荒木又右衛門》(1936)等々がそこから生まれ,これらの新しい自由奔放な時代劇は〈ちょんまげをつけた現代劇〉と呼ばれた。…
…すでに〈旧劇〉〈新派〉という呼称はなく,〈時代劇〉〈現代劇〉という言い方が一般化していた。量的には時代劇が圧倒的に多く,ロケ撮影に適した風景や古い建物のある京都でつくられたが,〈剣戟王〉阪東妻三郎がみずからのプロダクションの撮影所を太秦に建設(1926)して以来,京都のなかでも太秦が時代劇映画のメッカとなった。田中純一郎著《日本映画発達史》は,30年,帝キネのスタッフが全焼した大阪長瀬の撮影所から太秦の元阪妻プロ撮影所へ移ったことを記したあと,〈嵯峨野の一寒村であった太秦は,これにより日本随一のスタジオ街となった。…
※「時代劇映画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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