大浜湊
おおはまみなと
中世の大浜湊は、現在の浜寺町の辺りであるが、藩政期に至って北部の発展とともに、鶴ヶ崎・松江の海岸にも船が入ると、それらを総称して大浜湊といった。大浜が海運の要地として、その名を史料の上に現してくるのは中世に入ってからで、応永二八年(一四二一)一〇月、和田政平が大浜称名寺に寄進した目録(称名寺文書)に「一敷地事 一白紙取事 一船問料大舟小舟事 一西浜地子事 一材木船公事 一惣才木事」とあり、大小の船が入港し、材木の集散地となっていた。油ヶ淵が入江であった慶長以前の大浜郷は、東・西・南に海を控えて半島形をしており、交通上の要地であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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