船舶による貨物・旅客の海上における運送(海上運送)をいう。営利を目的として海上運送を行うものが海運企業であり、それを総称して海運業という。このうち旅客の長距離海上運送は、第二次世界大戦後、航空機や自動車運送の発達のために重要性を失い、とくに国際運送においてほぼ完全に航空運送(空運)にとってかわられ、旅客船は、クルーズの目的のものを除くとほとんどない。
[地田知平]
海運の歴史は古く、紀元前3000年ごろにさかのぼるといわれる。しかし、活発に海上運送を行ったのはフェニキア人で、前10世紀ごろであった。それ以後、主要な海上運送の担い手は、国や地域の勢力の消長につれて変遷をたどった。フェニキアに次いでギリシア、ローマ、中世になるとイタリア、ついでハンザの商人、近世になるとスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスと移っていった。この間の海運自体の歴史は、船舶の技術進歩、航海術の発達、そして航海する地域が全世界に拡大していく過程であった。
今日の船舶のような鉄(ほどなくして鋼鉄にとってかわられる)製で機械力を使って推進する船舶が出現したのは、19世紀の初めであった。その最初は蒸気船(汽船)であった。汽船が帆船(木造)にかわって海上運送の主役の座を占めたのは、19世紀の後半であった。このころから、前者の運送能力が後者のそれを上回るようになったのである。汽船時代の先駆者はイギリスであった。帆船時代に優位を占めたのは、造船材料(硬質材)に恵まれたアメリカであったが、イギリスは、そのアメリカにかわって産業革命の母国として鋼鉄製汽船の建造に優位を占めるとともに、石炭をはじめ「世界の工場」として貨物に恵まれたために、運送のうえでも優位にたつことができたのである。鉄汽船の出現と、その海上運送手段としての地位の確立をもって近代的海運の成立の時期とするのであるが、それは、以上のようにイギリスの圧倒的な優位をもって始まったのである。
鉄汽船の出現はまた、海上運送の形態を変化させることになった。それまでは、中世のイタリアやハンザの商人の海上運送がそうであったように、貿易商が自ら船舶を運営して自己の貨物の運送を行うのが、主たる海上運送の形態であった。商人が同時に運送者でもあったので、これをマーチャント・キャリアーmerchant carrierとよんでいる。鉄汽船の出現を契機にして、海上運送の主要な形態は、コモン・キャリアーcommon carrier(またはパブリック・キャリアーpublic carrier)へ移っていった。それは、海上運送を(営利を目的として)業として行うものをいう。いわゆる海運会社がそれで、イギリス、ドイツなどの世界の著名な海運会社の多くは、この移行の前後に設立されている。大型の鉄汽船の出現のためにマーチャント・キャリアーは不利となり、他方、産業革命の進展による海上貨物(およびアメリカ大陸への移民)の増加は、パブリック・キャリアーの成立を可能にしたのである。その後、生産会社のなかには、大規模となり原料や製品の運送量が大量となったために、その運送を自ら船舶を運営して実施するのを有利とするようになるものがあった。このように生産会社が同時に自己の貨物の運送者でもある海上運送の形態を、インダストリアル・キャリアーindustrial carrierという。専用船(特殊船ともいう。後述)の分野に多く、なかでも大量のタンカーを保有する国際石油資本(メジャーと俗称される)が、その代表的な例である。
ところで、世界の海上運送におけるイギリスの地位は、第一次世界大戦後には依然首位を占めてはいたものの低下の傾向をたどり、かわって日本、ノルウェー、ドイツなどが台頭してきた。また1920年代になると船種ではタンカーが新たに出現し、推進方式ではディーゼル機関を装備する船舶が増加してきた。第二次世界大戦後には、世界の船腹量が増加するなかで、イギリス、そしてイギリスを抜いて1位となっていたアメリカも船腹の保有比率を低下させ、その反面リベリア、パナマなどのいわゆる便宜置籍国の保有船腹量は、量および比率の両者で高まり、1967年にリベリアは世界第一の船腹保有国となった。日本、ノルウェーそしてギリシアは相対的地位を高め、なかでも日本は、1969年(昭和44)には世界第2位、変則的な便宜置籍国を除くと実質的には世界第1位の船腹保有国となった。第一次石油危機(1973年)後には、定期船同盟憲章条約の成立を背景に開発途上国などの海運が定期的に進出してきた。憲章は、いわゆる40:40:20の原則、すなわち輸送発着地の国の海運に、両地点の全輸送の各約40%、残る約20%を第三国海運にそれぞれ積むこと(いわゆるカーゴ・シェアリングcargo sharing)を認めることとした。しかし、1984年にアメリカで新海運法が制定されたことや、1980年代後半以降、アジア新興国が成長するなかでの台湾、インド、中国、シンガポールなどのアジア船主の発展、さらにアジア海運が盟外船として定期船市場へ参入したことによる海運同盟の無機能化など、世界の海運情勢の大きな変化のために、効果をあげていない。
第二次世界大戦後、とくにスエズ運河の第1回封鎖(1956年)に誘発されて始まった船舶の技術進歩は、1960年代になると世界の海運史上かつてみない規模で展開した。その結果、専用船の種類が増えるとともに、タンカーを中心に専用船の大型化が急速に進んだ。コンテナ船の開発もこの時代の船舶の技術進歩の重要な一つで、海上運送、とくに定期船運送の多くの面に大きな変革を引き起こした。石油危機後には、技術進歩の重点は、省力・省エネルギー船の開発に移っていった。
同盟機能の低下のなかで、同盟内に結成されていたコンソーシアムの再編や解散が行なわれる一方、企業間の新しい提携によって市場の安定化を求める試みが実施された。1980年代の終わりから1990年代にかけて、同盟船と盟外船を含めた複数航路にわたる市場安定化をめざす協定が、1998年の太平洋航路安定化協定をはじめとして締結された。
それと並行して、日本の定期船企業にみられたように、世界の主要定期船企業間のグローバルな複数航路をカバーする広範囲の事業の提携である、アライアンスを結成する動きがおこった。一方、アライアンスにおける意思決定の遅さを回避して単独でグローバルな定期船活動を行なおうとする企業は、外国の有力海運企業との合併や買収によって規模を拡大して競争力の強化を試みた。1997年、世界の有力船主であるイギリスのP&Oコンテナ社と、オランダのネドロイド社の定期船部門が合併し、これに多くの例が続いた。
[地田知平]
日本と外国との海上運送は、13~16世紀ごろの倭寇(わこう)や16~17世紀ごろの朱印船貿易の例はあったが、江戸時代になると鎖国と大船建造禁止のために海上運送は沿岸地域に限られるようになり、そのなかで発展を遂げた。とくに江戸―大坂・兵庫間には17世紀に始まる菱垣廻船(ひがきかいせん)、それから分離した樽廻船(たるかいせん)、北陸―大坂・兵庫間の北前船(きたまえぶね)は著名であった。
1853年(嘉永6)のペリー来航による開国、ついで1868年(明治1)の明治政府の成立を契機として、日本の海運は近代化の道をたどることになった。明治政府は、富国強兵政策の一環として日本の海運業(造船業とともに)の育成を図った。西洋型船舶の保有と建造が奨励され、近代的海運会社が設立され、1897年(明治30)までには近代的な海運に対応する法律・制度の整備がほぼ終わっている。政府の保護・育成の対象は、当初は三菱(みつびし)会社(1885年に日本郵船となる)であったが、やがて日本郵船、1884年設立の大阪商船(のちの大阪商船三井船舶、現商船三井)の「社船」とよばれた定期船会社であった(のちにさらに東洋汽船(1891設立)が加わる)。その方策の中心は、1896年公布の航海奨励法(および造船奨励法)と特定航路助成であった。
こうして1876年(明治9)までに外国会社の競争を排除した日本海運業は、その後は戦争とともに発展を遂げた。とくに日露戦争(1904~05)の影響は大きく、社船はもちろん、それ以外の「社外船」とよばれた不定期船の経営を主としていた海運会社も発展した。社外船には、前述の明治以前に起源をもつ海運会社のほかに、明治時代に創設されたものも含まれていた。なかでも三井物産は、荷主を兼ねた大用船者(船舶の借り手)で、そのために除外船として他の社外船から区別されたこともあった。
第一次世界大戦時には、日本は参戦はしたものの大きな戦闘に巻き込まれなかったために船舶を保持することができ、日本海運は、戦争による世界の商船の甚だしい不足のなかで高利潤をあげることができた。それにつられて多くの海運会社が設立され、海運業だけでなく造船業も空前の繁栄を享受した。しかし、戦争が終わると世界の海運市場は不況に陥り、新興船主の多くは崩壊したが、こうした浮沈のなかから日本の海運業は、社外船にオペレーターとオーナーの区別が生じ、これらに社船を加えた三つのグループをもって構成されることになった。この構造は第二次世界大戦まで続いていた。オペレーターは、用船に大きく依存して大規模な不定期船の経営を行った海運会社であり、これらに対して所有する船舶を用船に出すことを主としたのがオーナーであった。代表的なオペレーターは、三井物産(船舶部)のほか、山下汽船、第一次世界大戦直後設立された川崎汽船、国際汽船、1930年(昭和5)に山下汽船から分離した大同海運などであった。これらはしだいに定期船経営にも進出していくのであるが、大戦後の不況のなかで日本海運業を630万総トン余(1941)の船腹保有国にまで発展させた主たる原動力は、これらオペレーターの企業心であった。
1930年代の世界恐慌による海運不況に対して日本政府は、32年に船質改善助成政策(いわゆるスクラップ・アンド・ビルド政策)を実施して、不能率な中古船を解体する一方で、それと引き換えにそれより少量の高性能の船舶を建造し、日本商船隊を縮小して不況に対応すると同時に、その国際競争力の強化を図った。この対策は大きな成果をあげた。昭和10年代に入ると戦時体制が始まり、海運もその影響を免れることはできなかった。政府の施策の重点は不況対策から国防目的へと移り、1937年には優秀船建造助成、遠洋航海助成などを内容とする「海運国策」が策定された。1939年の第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)を契機として海運に対する国家統制はいっそう強まった。そして、太平洋戦争が始まった直後の1942年3月に政府は戦時海運管理令を公布して、海運を全面的に国家管理の下に置くこととなった。
第二次世界大戦中に日本海運業が被った損害は甚大で、戦時中の喪失船は800万総トン強に達した。そのために、戦時中にかなりの新造船があったにもかかわらず、終戦時に残存した船舶は、開戦時の630万総トン余に対して150万総トンに減少した。それは大正時代初めの船腹量に相当するものであった。しかも残存した船舶のほとんどが、老朽船もしくは戦時建造の低性能船で、外国航路に就航しうるものは数隻にすぎなかった。船員の被った犠牲も、軍人の犠牲率をはるかに超える43%に達した。日本海運は戦争によって壊滅的打撃を受けたといわれるゆえんである。しかし多くの人的、物的、有形、無形の資産は残されていた。戦後の日本海運業の復興と成長が急速であったのは、こうした遺産があったからである。
終戦と同時に、全商船は連合国軍総司令官の管理下に置かれ、その代行機関として船舶運営会(1942年設立。国家管理に移された商船の一元的運営機関)が商船の運営と管理を担当することになった。1950年(昭和25)に連合国の管理が解除され、商船の管理・運営が運営会から海運会社の手に戻された。いわゆる「民営還元」であり、ついで1952年の講和条約の発効とともに、日本海運業は内外航にわたって自由な活動を行うことができるようになった。
その後の日本海運の発展は顕著で、とくに昭和40年代には急成長を遂げた。こうして1969年には日本は世界第2位の船腹保有国となり、1976年には日本籍船は、今日に至るまでの最高の4166万総トンに達した。日本海運の戦後の発展の要因は、日本経済の高度成長と輸出入貿易の急増をはじめとして、計画造船方式による船舶建造に対する国家資金の投入を中心とした海運政策、合理化に対する船員労働組合の比較的弾力的な対応などであった。さらに重要なのは、これらの要因と1960年代から始まった船舶の急速かつ大規模な技術革新を結合させて企業成長に結実させた企業の活力であった。この過程において、戦前の社船グループは定期船主体から専用船に向かって経営を多角化し、戦前の社外船グループは、戦前に開始した定期船経営をいっそう拡充した。その結果、両者間に経営態様上の差異はなくなった。
計画造船方式による国家資金投入に主として依存した船腹の拡充は、国家資金配分が平等主義によったことと相まって多数の海運会社を輩出させ、その結果それらの間で過当競争を誘発することになった。1960年代の世界海運の長期不況のなかでとくに日本海運業の業績不振がひどかった主たる理由は、ここにあった。こうした不況を打開するために1964年4月、政府主導の下に、世界の海運史上例をみない、船腹量で80%、936万総トンに及ぶ大規模な日本海運業の再編成が一挙に行われた。「海運の集約化」といわれるのがそれであった。それは、主要海運会社の合併によって成立した六つの「中核体」(中核6社)とよばれる企業(日本郵船、大阪商船三井船舶、川崎汽船、ジャパンライン、山下新日本汽船、昭和海運)のそれぞれを中心とした企業(系列会社および専属会社といわれる)のグループ化であった。この再編成は、同じ時期から始まった海運をめぐる環境の好転もあって成功し、主要会社は1968年3月までに巨額の償却不足と借入金の返済延滞を解消したうえに配当を実施できるまでになった。
それ以後日本海運業は、昭和40年代の初頭から始まるコンテナ輸送と船舶の専用・大型化のいっそうの展開に対応しながら、日本経済の高度成長の下で急速な発展を遂げた。
1973年の第一次オイル・ショック、ついで1975年の第二次オイル・ショックは、世界および日本の経済、そして世界海運と広い範囲にわたって大きな影響を及ぼしたが、日本海運業に与えたインパクトもきわめて大きかった。
日本経済は高度成長から一転して低成長になり、その過程で重心を資源多消費型産業から知識集約型産業へ転換していった。この転換は、重化学工業化による日本経済の成長に依存して発展してきた日本海運業にとっては有利ではなかった。こうして日本海運業の高度成長を推進してきた要因の一つがなくなったのである。
そのうえ、この時期には円の対米ドル為替相場が急騰した。円高である。円高は日本海運業の経営に広い範囲にわたって深刻な影響を及ぼし、その過程で、不変なものと考えられてきた企業活動の枠組みである制度や慣行を変革したり、無効化したりした。そのなかには日本海運業の成長要因が含まれていた。
日本の外航海運は、運賃を主としてドル建てで受け取り、コストの多くは円建てで支出するという構造であったので、円高によって受けた不利益は非常に大きかった。そこで日本海運業はコストのドル建てへの転換を試み、それはかなり成功したが、主として円建てで賃金等の船員費を支出する日本人船員を配乗している限り、円高は日本籍船の国際競争力を弱め、その結果、不経済化した日本籍船の海外売船や、便宜置籍国等へ移籍(フラッギングアウト)または置籍して低賃金の外国人船員を配乗して用船する試みが急増し、日本籍船の急減と、その結果として乗船機会を失った日本人船員の余剰が急増した。
これに対して、余剰船員の解消と国際競争力を強化して日本籍船の減少を食い止める試みが、海運企業と政府の両者によって実施された。そのなかでもっとも大がかりな試みは、1979年に本格的に開始された、船員制度近代化計画であった。しかしこの計画は、多くの試行ののち、「全員日本人船員乗組みで国際競争力がある日本籍船の確保」という本来の目的の実現は不可能であり、日本人船員と外国人船員との混乗によらざるをえないことを明らかにして、1996年(平成8)に終了した。それほど船員費の内外格差は大きかったのである。その後小規模の同趣旨の試みとして、国際船舶制度が導入されている。
ともあれ日本籍船の海外売船と、それを補うための外国船の用船(外国用船。仕組み船ともいう)が増大し、伝統的に日本籍船で構成されてきた日本商船隊であったが、しだいに外国用船の占める比重が高まっていった。1988年(昭和63)には外国用船が日本籍船を超え、1994年(平成6)には外国用船2128隻8152万総トンに対し、日本籍船95隻735総トンに過ぎなくなった。いわゆる「日本商船隊の構造変化」が生じたのである。
このことは、第二次世界大戦後一貫して、日本籍船建造の主たる資金供給者として、日本海運業の成長を資金面で推進してきた政府の「計画造船」制度を無用化し、やがて廃止に至らしめた。昭和40年代の好況によって、市中で資金の自己調達が可能となった海運企業にとっては、円高で外資の導入が可能かつ有利となった一方、計画造船の融資条件は、国際的非難や日本海運業の好況のために借り手に不利に改定されていったからである。計画造船の無用化で、企業は資金供給をてこに行われてきた政府の強力な介入を免れることができた反面、自主的に成長の方策をみいだす必要が生じた。
こうして日本海運業は、それまでの成長を促進してきた諸要因が石油危機後変質したために新しい成長の方途を探ることとなった。
日本海運業は、以上のような事情のなかで長期の不況に陥った。最初は1979年(昭和54)に始まるタンカー不況で、三光汽船等の有力タンカー企業が崩壊した。1982年には不定期船不況が、1984年にはさらに定期船のかつてない深刻な不況が加わり、その結果、海運はいわゆる3部門の同時不況に陥り、この状態は1988年ごろまで続いた。
定期船不況を受け、日本海運業の企業集中が進行した。1988年に、昭和海運が日中航路を除く全定期航路から撤退し、保有船舶11隻で船舶保有会社を設立したが、1998年(平成10)には日本郵船に吸収合併された。山下新日本汽船とジャパンラインは、深刻な業績不振に陥ったそれぞれの定期船部門を分離し、1986年(昭和61)に共同出資して設立した日本ライナーシステム(NLS)に移した。さらに不定期・油送船の両部門を統合するため、1989年(平成1)には両社が合併してナビックスラインを設立した。NSLはその子会社化されたが、1991年に日本郵船に吸収合併された。その後ナビックスラインは1999年に大阪商船三井船舶と合併し、商船三井と改称した。以上のようにして、1964年(昭和39)の海運集約によって形成された6グループは、1999年ごろまでに以上の3グループに集約された。
この定期船不況の背景には、100余年にわたって世界の定期船市場の安定を維持してきた、定期船カルテルである海運同盟の崩壊があった(上述の「世界の海運史」参照)。盟外船が増加し海運同盟に競争を仕掛け、その市場の規制力を弱めたのである。これに対して同盟企業は、コンテナ輸送の特質から競争が広い範囲にわたって行なわれるため、複数航路を包括しかつ盟外船を含めた安定化協定を、1900年代前半に新たに結び、市場の安定化を試みた。この方策と並行して特定企業間の東西航路を中心とした複数航路をカバーし、船舶の融通・調達、ターミナルの相互利用など広範な提携であるアライアンスが、日本企業の発意によって1995年に初めて結成された。
[地田知平]
一国が自国海運を保有する意義、つまり自国海運に期待する役割については、古くから定説がある。(1)自国の輸出入貿易の促進、(2)国際収支上の貢献、すなわち自国海運の運賃収入は、外貨の獲得(外国貨物の運送)または外貨の支出の節約(自国貨物の運送)になる、(3)船員および陸上職員の雇用が、自国の労働者の雇用機会を増大する、(4)有事の際に兵員・物資の運送手段の確保および商船の艦艇への転用などの軍事目的への貢献、(5)自国の国旗を掲げた商船の外国への航行は国家の威信を高める、などがそれである。これらのうちどれを重視するかは、それぞれの国の政治・経済事情によって異なるし、同じ国でも時代によって相違がある。
[地田知平]
海運を対象にした国の諸施策が海運政策である。その内容は広範にわたり、船舶の航行の安全確保、船員の保護・養成、海運企業の活動に対する規制、海運業に対する援助に至るまでさまざまである。しかし、重要なのは、自国の海運業の保護・育成を直接に意図する保護政策である。自国海運に対して保護政策を採用する根拠は、前述した自国海運の役割の一つまたは二つ以上を実現することにある。
海運保護政策の手段としては次のようなものがある。
(1)自国の沿岸航路や植民地航路などを自国海運業に独占させる航路独占。
(2)国旗差別政策flag discrimination policy。その内容は種々である。差別トン税の採用などの外国船に比べ自国船に有利な条件を与える諸措置や、自国の輸出入物資の運送を自国の船舶に優先的に認める自国貨自国船主義ないしは自国船優先主義などがそれである。後者の典型が、自国貨の一定割合を自国船に留保する貨物留保政策cargo reservationで、カーゴ・シェアリングもその一種である。
(3)各種補助金の支給。船舶の建造に対する造船補助金、特定航路の就航に対する航路補助金、郵便物の運送引受けに対する郵便補助金などがある。
(4)造船資金の(往々にして低利の)供給、利子の減免措置、減価償却や課税のうえでの優遇。
海運保護政策の歴史は古く、その原型とされるイギリスの航海法Navigation Actが制定されたのは1651年のことであった。この種の政策が広く採用され、政策手段が多様化したのは、鉄汽船時代、つまり近代的海運業の成立以降のことであった。この時期以降、海運における競争は全世界的規模に広がるとともに激化の傾向をたどったために、国際競争力の劣った自国海運業を所望の水準に維持・拡大するため、政策に依存せざるをえなくなったのである。そして、当初は国旗差別政策が採用されたが、他国の報復を避けるために、補助政策、それも特定船舶や特定航路を対象にしたものから、低利の造船資金の供給や税制上の優遇措置などに移っていった。例外はアメリカで、古くから一方で政府物資の一定割合を自国船に留保し、他方で造船費差額補助金や重要航路に就航する自国船に対して運航費差額補助金を支給している。
海運保護政策は、海運市場が深刻な不況にみまわれるごとに拡大の傾向をたどっている。1930年代の不況時がそれであり、第二次世界大戦後に一般化したのは、1960年代から始まる船舶の技術革新の進展を主因とする海運市場の長期不況をきっかけとしていた。
1960年代のなかばごろから、新しい自国海運の保護主義が台頭してきた。「海運における南北問題」と総称されているのがそれである。それは、いわゆる南北問題の一環として提起されたのであるが、その要旨は、南の諸国、つまり開発途上諸国が、UNCTAD(アンクタッド、国連貿易開発会議)の場で、自国海運の育成のために自国出入貨物の運送の一定割合を自国船に留保することを国際条約によって認めることを主張したことである。それは、従来もっとも悪質な海運保護政策として非難されてきた国旗差別を公式に導入しようとした点で重要であるだけではなく、近代海運の成立以降世界海運の運営の秩序を支える不動の原則とされてきた「海運自由の原則」(海運市場の運営に対する政府介入を排除して、企業の自由にゆだねる)を否定し、市場秩序を根底から変化させる点でとくに重要であった。UNCTADにおける論議は、まず定期船同盟(後述)を対象とし、結局1974年に定期船同盟憲章条約として結実した。条約は、同盟の行動に対する規制のほか、貿易の両当事国の海運会社各40%、第三国の海運会社20%をガイド・ラインとするカーゴー・シェアリングを規定している。しかし、この条約の採択に先だつ1967年のブラジルを皮切りに南米の諸国は相次いで、条約を先取りするかのように国内法によってカーゴー・シェアリングを導入した。その動きは南米以外にも波及している。
南の諸国は、同じUNCTADの場で、さらにバルク貨物(鉄鉱石・原油など大量に運送される貨物)の分野にもカーゴー・シェアリングの導入を主張している。それを先取りする動きは中東の産油国のなかにおきている。さらに開発途上国は、便宜置籍船が先進海運国の競争力を強化し途上国の海運の発展を阻害しているとして、その排除を主張し始めている。以上のような動きによって世界の海運は大きく変化しようとしている。
[地田知平]
外国との間および外国相互間の海上運送を、内航海運(内航運送)と対比して外航海運(外航運送)という。行政上、遠洋区域と近海区域に区別している。第二次世界大戦後、航空機の発達により旅客運送は重要性を失い、貨物運送を主とする。船舶の種類、運航の仕方により定期船、不定期船、専用船に区別できる。
[地田知平]
航路を特定し、あらかじめ公告した時刻表に従って運航される船舶で、主として小口の貨物を積み合わせて運送する。大会社による経営が多く、世界の主要海運会社の多くは定期船経営に重点を置いている。19世紀末から第一次世界大戦にかけて数度の集中運動を経て形成されたイギリスの三大グループ、前述の日本の三中核体がその例である。
定期船市場は、海運同盟shipping conferenceとよばれるカルテルによる独占が普通であった。航路ごとに一つの同盟が形成され、その数は世界全体で300余に達するといわれた。同盟は、カルテルとして運賃をはじめ航海数などを協定するもの、高度化してプール協定をもつものまで多様であり、さらに往々にして盟外船outsiderを排除する手段をもつ。同盟には閉鎖同盟closed conferenceと開放同盟open conferenceとがある。後者はアメリカを発着する航路における同盟で、同国の独占禁止法の関係上、新規加盟が自由で、盟外船の排除の手段に制限があるなど独占力が弱い。これに対して、前者はイギリス船主を中心に結成された同盟で、新規加盟を厳しく制限するなど強い独占力をもっている。
しかし、同盟の独占力は、石油危機後、一様に弱まる傾向にある。とくに1980年代の後半からは、コンテナ輸送の発展、アジア船主の台頭、アメリカ海運法の改正などにより海運同盟はその機能を失った。世界の海運会社は、それにかわる新たな緩やかな結合を求めて模索している。
定期船の100余年の歴史のなかで最大の技術進歩は、コンテナ船の実用化である。外航海運にコンテナ船が進出したのは、1960年代のなかばごろにアメリカのシーランド社Sea-Landが最初であったが、大方の予想に反して10年足らずの間に主要航路において在来の定期船に代替し、コンテナ化を完了した。荷主にとってきわめて有利な運送方式であったからである。さらにコンテナ船を利用した複合一貫輸送も展開し、定期船市場の構造を変化させている。MLB(ミニランド・ブリッジ。日本―北米内陸間のコンテナによる複合一貫輸送)、SLB(シベリア・ランド・ブリッジ。シベリア鉄道経由の日本―ヨーロッパ・中東間)がその例である。
[地田知平]
小麦、石炭などの大口の貨物を積み取り、随時航路をかえて運航される船舶をいう。使用される船舶は比較的小型である。企業は小規模のものが多数あり、全世界が一つの市場で、そのなかで高度の競争(純粋競争ともいわれる)が行われている。したがってカルテル形成の試みが不況のたびごとに繰り返されてきたが、第二次世界大戦後の日本の輸入物資輸送協議会のような局地的な場合を除いて失敗している。不定期船運送取引を仲介するものとしてシップ・ブローカーがあり、彼ら(および荷主・海運会社など)が集まって取引を行う施設として海運取引所がある。もっとも著名なのが、ロンドンにあるボールティック海運取引所である。
第二次世界大戦後、専用船の発達のために、不定期船貨物のうち、運送量が増加した鉄鉱石などの運送が専用船に移る傾向が生じている。
[地田知平]
特定の貨物の運送に適した構造をもった船舶が専用船である。第二次世界大戦後の造船技術の進歩は、その種類を多様にした。専用船は二つのタイプに区別できる。その一つは、従来の定期船もしくは不定期船の貨物を運送する専用船で、特定の貨物の運送に関して不定期船、定期船と代替できる船舶であり、これらと競争関係にある(代替的専用船)。鉱石専用船ore carrier、自動車専用船がその例で、前者は不定期船、後者は定期船のそれぞれ代替的運送手段である。いま一つのタイプは、従来の貨物船では運送できない貨物を運送する専用船で、その限りで海運市場を新しい領域に拡大する(市場拡大的専用船)。タンカー、LPGタンカー(液化ガス運搬船)、リーファーreefer(冷蔵船)などがその例である。
[地田知平]
国内の沿岸地域相互間の海上運送をいう。すべての国がそうであるわけではないが、日本の内航は、日本船の独占が認められている(沿海航行cabotage)。日本の内航海運は、2006年(平成18)3月にトン数で4億2614万(1995年は5億4854万)トン、トンキロで2115億(同2383億)トンキロの貨物運送を行い、前者は日本全体の貨物運送の7.8(同8.3)%、後者は37.1(同42.6)%をそれぞれ占めていた。これからわかるように平均運送距離は496(同434)キロメートルと長距離であった。これらの貨物を運送した船舶は、6117(同7953)隻、351万(同400万)総トンであった。事業者数は、同じときに3852(同4492)事業者で、きわめて零細のものが多いのが特徴である。それらは運送業者(オペレーター)と貸渡し業者(オーナー)とに区分され、圧倒的に数が多く規模も小さいのは後者である。
第二次世界大戦後の日本の内航の歴史は、船舶の技術進歩(ここでも専用化と比較的小型のなかでの大型化)と過剰船腹の調整の歴史であったといってよい。船舶の専用・大型化は、戦後の日本経済の成長と構造変化の展開を反映したものであった。戦争直後から昭和30年代の初めまでは木造機帆船が鋼汽船とともに重要な役割を果たした。とくに運送トン数では圧倒的に多く、1955年には60%弱のシェアをもっていた。しかし、1957年ごろから小型鋼船への転換が急速に進んだ。鋼船の高性能化と木船の船価上昇のためであった。ついで、昭和30年代の後半からは専用船が増加し始めた。タンカーをはじめセメント専用船、石炭専用船、自動車専用船などが主で、明らかにこの時期から始まる日本経済の成長のなかでの企業成長と産業構造の変化を反映したものであった。専用船の発達の結果、荷主の運賃交渉力が強まり、内航船主の零細化と相まって、船主の荷主への従属の傾向が生じた。1996年3月には、鋼船中の49.5%が専用船であった。石油危機後は、省力船、省燃料費船がさらにこれに加わる。このような内航船近代化の資金の供給にあたって、復興金融公庫、特定船舶整備公団、船舶整備公団などの公的機関が大きな役割を果たした。
以上のような展開のなかで、過剰船腹がしばしば表面化し、その調整の努力が行われた。内航海運業内部の要因として、新規参入が容易なこと、船舶の技術進歩の展開、そのなかでの運送費の低下を求める荷主の交渉力の強化などがある。過剰船腹調整のために、低性能船舶買入法(1950年)、木船運送法(1952年。事業の登録制、標準運賃設定など)、小型船海運組合法(1957年。組合を結成して自主調整を行うことを認めるなど)、小型船海運業法(1962年。木船運送法の鋼船への拡大と登録制の強化)などが公布され、1964年の「内航二法」(内航海運業法と内航海運組合法。規制範囲の拡大と規制強化および合併・協業などの経営改善の指導)へと展開した。その後の内航海運の秩序は内航二法によって結成された内航海運組合(複数)の船腹調整事業によって維持されてきたが、1980年代のなかごろから産業界の規制緩和が要請されるなか、内外の公私の機関から組合の船腹調整に批判が高まってきた。その結果、この事業の検討が求められた。
以上のような事情を背景に、1984年に第一回の構造改革指針が策定され、陸上の自動車輸送から内航海運へのモーダルシフトが提案され、1994年(平成6)にはそのためのハードとソフトの両面における整備の強化が提案された。
1955年ごろから新しい輸送方式としてカーフェリーが登場し、1960年代なかばころには急速に拡充され、1968年には長距離航路が開設された。その後、長距離フェリーの新航路開設と新規参入が続いたが、第二次オイル・ショック(1979年)後の運送需要の減退と燃料費の上昇のために整理期に入った。2008年4月1日現在の長距離フェリー(300キロメートル以上)航路数は11(1997年1月1日現在は22)、就航船39(同55)隻、会社数12(同13)社、航路距離8420(同1万7780)キロメートルである。
[地田知平]
オイル・ショック時に発生した世界海運や日本の海運が直面した諸問題は、その後これらに対する企業側の適応が進み、多くはとくに問題性をもたなくなった。円高にしても便宜置籍船の問題にしてもそうであった。しかし海運同盟の崩壊は外航海運、とくに定期船業にとって直面する最大の問題である。海運同盟にかわる市場安定化の仕組みをどうやってみいだすか、その模索はすでに始まっている(アライアンスがその一例である)が、まだ終局的な解決には至っていない。
いま一つは、タンカーの大型化とその増加によって、深刻な海洋汚染を伴う海難が発生したことである。それには船員の技能の低下も関係しているが、こうした問題に対応して、国際的にさまざまな措置がとられている。ILO(国際労働機関)、IMO(国際海事機関。IMCO=政府間海事協議機関が1984年改称)における規制のための条約の採択などである。
日本の内航海運についてはほぼ恒常的な過剰船腹への対応が最大の問題である。
[地田知平]
『佐波宣平著『海運理論体系』(1949・有斐閣)』▽『金子栄一編『造船』(『現代日本産業発達史Ⅸ』1964・交詢社)』▽『黒田英雄著『世界海運史』(1967・成山堂書店)』▽『『脇村義太郎著作集 第1、2、3、5巻』(1976~81・日本経営史研究所)』▽『地田知平著『海運産業論』(1978・千倉書房)』▽『日本経営史研究所編『商船三井二十年史――1984~2004』(2004・商船三井)』▽『運輸省海上交通局編『日本海運の現況』各年版(日本海事広報協会)』▽『日本船主協会編・刊『海運統計要覧』各年版』▽『T.Chida and P.N.DaviesThe Japanese Shipping and Shipbuilding Industries(1990,Athlone Press,London)』
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…船舶による海上輸送業務をいう。
[成立と役割]
海運は古い歴史を有するが,今日の海運市場取引に基づくいわゆる他人運送を専業とする海運業(コモン・キャリアcommon carrier)が海運に支配的地位を占めるようになったのは,19世紀を迎えてからのことである。それまでの海運は,商人が積卸地の市場で売買する自己の商品を輸送するために船舶を所有し運航するという自己運送形態(プライベート・キャリアprivate carrier)にあった。…
…船の運航を中止して,港に係留すること。海運市場における船腹の供給過剰によって引き起こされる海運不況時には,運賃市況が後退を続ける過程で競争力に乏しい高コスト船から順に,その運賃収入は運航コストと等しい〈損益分岐点〉にまで落ち込む。しかし,そこで運航を止めて係船しても,変動費である運航費(燃料費,貨物費,港費等)はなくなるが,固定費である減価償却費,利子,一般管理費等はほとんど節約されることなく着実に生じる。…
…船舶の国籍によって貨物の積取り,港湾サービスの提供,課税および諸料金等の面で差別をすることをいう。海運における極端なナショナリズムの典型として現れる国旗差別政策は,重商主義の時代を貫き19世紀前半までの欧米海運を支配した。しかし以後の国際海運市場では,〈自由競争のしくみが各時点における輸送力を最も能率的かつ経済的な方法で荷主の利用に供することを可能にし,同時に技術革新の導入を促す原動力である〉と考えられ,この海運自由の思想が大部分の海運国の政策に反映されてきた。…
…ここでいう水運は,海上交通すなわち海運と河川交通すなわち内陸水運をあわせ含んだ水上交通を指す。水運の歴史は古く世界の各地域によりその様相を異にする。…
※「海運」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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