碧南市(読み)ヘキナンシ

デジタル大辞泉 「碧南市」の意味・読み・例文・類語

へきなん‐し【碧南市】

碧南

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日本歴史地名大系 「碧南市」の解説

碧南市
へきなんし

面積:三二・七二平方キロ

西三河平野の南端衣浦きぬうら湾と矢作川に囲まれた細長い地域に位置し、標高二・五メートルの洪積台地低地よりなり、低地の大部分は干拓によって生じたもの。旧碧海へきかい郡の南端に位置し、古くから碧南と称呼され、市名となった。

〔原始・古代〕

衣浦湾へ半島状に突出た洪積台地を中心に陸地化が進み、その縁辺に集落が営まれるようになった。かつて南の端に玉津浦たまつうら貝塚があり、発掘された壺形土器は弥生時代後期と考えられる。「和名抄」の大浜おおはま郷はこの地に比定される。大浜郷はもと幡豆はず郡に属したが、当時衣浦南岸一帯はすべて大きな浜で、名のとおり大浜であった。慶長一〇年(一六〇五)矢作川の改修によって本流が変化し、幡豆郡から碧海郡に入るようになった。長元元年(一〇二八)三河国の国司に任ぜられた藤原保相が開発し、関白藤原頼通に寄進したという志貴しき庄はこの地に及んでおり(荘園志料)棚尾たなお村には志貴屋敷の地名が残っていた。

〔中世〕

大浜郷は海上交通が早くから開けた。大浜称名しようみよう寺にある和田氏の寄進状によると応永(一三九四―一四二八)の頃、大浜に問丸があり、材木の集散地であった。三河地方教化のため応仁二年(一四六八)京都を出た蓮如が西端にしばたに上陸したのも水運によるものであり、この地方の真宗発展に大きな転機となった。

徳川家康の祖松平有親・親氏の父子は、応永の頃、大浜の称名寺に来たという(称名寺伝)。天文一六年(一五四七)織田信長は大浜を攻めた(創業録)が、戦国期この地は松平・織田両氏角逐の場でもあった。永禄二年(一五五九)家康は熊野くまの権現宮と常行じようぎよう院など七ヵ寺に土地を寄進している。同六年に起こった三河一向一揆は家康をさんざん苦しめるが、鷲塚わしづか願随がんずい寺は一揆方に加わり、御坊は焼失したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「碧南市」の意味・わかりやすい解説

碧南〔市〕
へきなん

愛知県南西部,矢作 (やはぎ) 川の河口右岸にある市。 1948年大浜,新川,棚尾の3町と旭村が合体して市制。 55年明治村の一部を編入。大浜,棚尾は室町時代からの港町。江戸時代には江戸への廻船基地として,三州瓦,酒,味醂などを積出した。瓦製造は碧海台地の粘土を利用したもので,現在は伝統の黒瓦より赤瓦,釉薬瓦が多く生産される。農業は兼業化が目立つが,ビニルハウス温室を使った野菜,花卉の栽培が行われる。 57年衣浦港が重要港湾に指定されて,ステンレス工場や,コーンスターチ製糖,飼料などの食品コンビナート,木材センター,自動車専用埠頭などが立地して工業港湾となった。衣浦海底トンネルが対岸の半田市と連絡し,77年には衣浦臨港鉄道港線も開通。名古屋鉄道三河線,国道 247号線が通る。藤棚で知られる広藤園,妙福寺の志貴毘沙門天,衣浦温泉がある。面積 36.68km2。人口 7万2458(2020)。

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