朝日日本歴史人物事典 「大竹与茂七」の解説
大竹与茂七
生年:延宝4(1676)
江戸中期の義民。新発田藩領,越後国蒲原郡中之島村(新潟県中之島町)の名主。宝永1(1704)年大雨による信濃川,刈谷田川,猿橋川決壊の際,独自の判断により,民有林のほか,藩有林を伐採して堤防保全に当てて被害を最小限にくい止めたが,無許可伐採の罪で大庄屋から藩に訴えられた。これはやむをえざる判断との理由で無罪となったが,正徳2(1712)年,中之島組大庄屋星野儀兵衛と中之島組名主との間で,借用証文,未進年貢などをめぐって争いが起こった。双方から藩に対する訴訟に発展し,吟味の結果名主側に非ありとの判決が下った。この際,与茂七は徒党を結び庄屋に非義を申しかけたとの理由で,翌年獄門に処された。一連の騒動の背景には,大竹家と星野家の争いがあったと考えられるが,与茂七は死後,義民として伝承されていった。<参考文献>畠山弄月子『義民与茂七実伝』,『編年 百姓一揆史料集成』2巻
(大橋幸泰)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報