新潟県北部の市。旧新発田市が2003年7月豊浦(とようら)町を編入,次いで05年5月紫雲寺(しうんじ)町と加治川(かじかわ)村を編入して成立した。人口10万1202(2010)。
新発田市北部の旧村。旧北蒲原郡所属。人口7442(2000)。西部は加治川の谷口北岸の扇状地,東部は櫛形山地からなる。享保年間(1716-36)の干拓によって生まれた紫雲寺潟新田を中心に,良質の加治川米の産地として知られる。水田単作地域で,機械化も早くから進み,米の単位面積当り収量は県下でも最上位にある。近年は畜産,蔬菜栽培,チューリップの球根栽培も盛んで,山地でのシイタケ栽培やニシキゴイの養殖も行われる。長堤十里といわれた加治川桜は,1966年,67年の水害のあと河川改修のため伐採されたが,復元作業が進められている。東部の大峰山麓の橡平(とちだいら)桜は,山桜の自然林として天然記念物に指定されている。JR羽越本線と国道7号線が旧村域を縦貫する。
新発田市北西端の旧町。旧北蒲原郡所属。人口7970(2000)。越後平野北部にあり,日本海に面する。加治川分水東岸の砂丘地帯と紫雲寺潟干拓地からなる。紫雲寺潟は東西8km,南北4kmの,蒲原低湿地中最大の潟湖であったが,1728年(享保13)から8年かけて,初めは竹前権兵衛,小八郎,その後は幕府の直轄事業で加治川の瀬替えによる干拓が行われ,広大な水田地帯となった。低湿地にあるためたびたび水害に見舞われたが,1914年には水害防止用に砂丘を切り開いて加治川分水が完成した。しかし66年,67年の羽越水害で2度にわたって破堤したため,その後分水路の大幅な改修が行われた。集落は砂丘内側に路村状に分布する。砂丘地帯でタバコ,野菜,果樹の栽培が盛んで,天然ガスも産出する。
執筆者:佐藤 裕治
新発田市の西部から東部にかけて位置する旧市。越後平野北部にある。1947年市制。人口8万0734(2000)。市域の東部は飯豊(いいで)山系,西部は加治川などのつくる扇状地,およびその前面に広がる沖積低地からなる。中心市街地は近世初頭,溝口秀勝が入封し,新発田藩の城下町として発達した。当時,付近には低湿地が多かったため,歴代の藩主は治水,干拓,新田開発に努め,その後穀倉地帯が形成された。城跡には1884年歩兵第16連隊が設置され,戦前は軍都であり,1957年には陸上自衛隊駐屯地となった。農業はかつての米作中心から近年は畜産,酪農が加わり,複合経営を志向している。JR羽越本線(1912開業),白新線(1956)の分岐点をなし,阿賀野川以北の地域を背景とする商業活動が活発で,繊維の卸業は近世以来盛んである。64年新潟地区新産業都市に指定され,食料品(漬物,酒造),電気機器,縫製などの工業が立地する。城下町の遺構として新発田城跡,清水園(藩主の下屋敷),足軽長屋(重要文化財)などがある。
執筆者:磯部 利貞
鎌倉初期の金剛院領加地荘の地。源頼朝の家人佐々木盛綱が加地荘地頭職を与えられ,その子孫は土着して繁栄,地名の新発田を姓とし城を構えた。新発田姓の初出は1423年(応永30)で,戦国末には城下町も成立した。1598年(慶長3)溝口秀勝が6万石で入封,新発田藩が成立した。旧城館の地に近世城郭と城下町を築造し,維新まで領主の移封を見なかった。そのため城下町も順調に発達し,慶長期には本町だけであったのが,新町,町裏へと拡大した。家数も増加し,慶長末期の約100軒が1711年(正徳1)には549軒,ほかに借屋281軒。1850年(嘉永3)には1932軒(借屋を含む)となる。ほかに家臣団約1000軒の大都市である。江戸中期からは人口の増加とともに,消防組織や塵芥(じんかい)処理規則の整備が行われた。木戸番所も増設され,1806年(文化3)には24になる。月12回の定期市が開かれ,在方,浜方,町方の産物が売買された。
執筆者:小村 弌
新発田市西部の旧町。旧北蒲原郡所属。1973年町制。人口9870(2000)。加治川左岸の沖積地からなり,西は福島潟に臨む。越後平野の穀倉地帯の中心をなす水田単作地域で,近年は複合化,兼業化が進行している。耕地の大半は近世,新発田藩の新田開発によって造成された。天王にある市島家は福島潟開発の請負により広大な耕地を所有し,大正末には全国でも屈指の大地主となった。大正年間に発見された月岡温泉は,新潟市から最も近い温泉地としてにぎわい,付近にはスキー場,ゴルフ場もある。JR羽越本線が通る。
執筆者:佐藤 裕治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
新潟県北部の蒲原平野(かんばらへいや)(越後(えちご)平野)の中心をなす商工業都市。1947年(昭和22)市制施行。1955年加治(かじ)川上流の赤谷、川東、菅谷(すがだに)、五十公野(いじみの)、米倉(よねくら)、松浦の6村、1956年加治川村の一部、1959年佐々木村を編入して加治川流域一帯を新市域とする。2003年(平成15)豊浦町(とようらまち)を編入。2005年北蒲原郡加治川村、紫雲寺町(しうんじまち)を編入。JR羽越本線(うえつほんせん)が通じ、白新線(はくしんせん)を分岐する。日本海東北自動車道の聖籠(せいろう)新発田インターチェンジが隣接する聖籠町にある。国道7号のバス交通の基点で290号、460号も走る。
中世豊田庄(とよたのしょう)の豪族新発田氏の居城が築かれたのに始まり、近世は上杉氏にかわった堀氏の与力(よりき)大名であった溝口氏(みぞぐちうじ)(新発田藩)6万石の城下町として270年間続いた。新潟県唯一の外様(とざま)大名で、蒲原低湿地を領有したので、治水・干拓事業に力を注ぎ、幕末には表高の4倍の実収高をあげ、近代の蒲原大地主王国の基盤を築いた。街はいまも城下町形態を残し、本丸跡は第二次世界大戦前、新発田連隊の置かれた所で、現在は自衛隊の駐屯地になっている。当時の表門、隅櫓(すみやぐら)(国指定重要文化財)や堀跡、溝口氏の下屋敷の清水(しみず)園、足軽(あしがる)長屋(国指定重要文化財)など城下町遺跡も多い。赤穂浪士(あこうろうし)の一人堀部安兵衛(ほりべやすべえ)の生家中山家の菩提(ぼだい)寺である長徳(ちょうとく)寺があり、安兵衛手植えの松や義士堂がある。
付近は古くから加治川銘柄米の産地として知られた穀倉地帯で、農村の買い物町、六斎(ろくさい)市場町としてもにぎわった。明治・大正時代は上流の赤谷鉄鉱山の全盛で、太平洋金属などの製銅・機械工業も盛んであった(鉱山は1968年廃鉱)。その後は、国道7号バイパスに沿って食料品、醸造業、衣服、木材工業がこれにかわっている。農村部は新潟市の郊村として園芸農、酪農、養豚が盛んで、近代的複合型農業開発に力が注がれている。南西部の月岡には大正期に噴出した月岡温泉がある。面積533.11平方キロメートル、人口9万4927(2020)。
[山崎久雄]
『『新発田市史資料』7冊(1965~1972・新発田市)』▽『『新発田市史』上下(1980~1981・新発田市)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
… これに対し,豪族が根強く勢力をはったのは,守護のいた府内から遠く離れた阿賀北地方である。鎌倉末~南北朝期の争乱で,下越きっての雄族佐々木加地氏は宗家の没落をまねいていたが,一族のうちから新発田(しばた)氏のように内乱期に成長をとげた者も出ていたし,秩父一族,三浦和田一族はすでに鎌倉期に独立した諸家,前者の本庄,色部,後者の中条,黒川などの諸氏,白河荘でも水原,安田氏など,あげて勢力を増大させていた。国人領主と呼ばれる彼らは所領の分割相続制をやめて,単独相続制に移行し,一族・庶子は所領給分を与えられて被官化=家臣化が強められていた。…
※「新発田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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