大篠津村
おおしのづむら
和田村の北にあり、北は佐斐神村(現境港市)、西は葭津村、東は美保湾に面する。外浜境往来が南東から北西に走る。村名の由来は砂丘地の間の湧水湿地に多くの蘆・篠類が生茂っていたことによるという(伯耆志)。開発は、永禄年間(一五五八―七〇)出雲尼子氏の遺臣安田惣兵衛、甲斐武田氏の浪人井田久左衛門が開拓・定住したのに始まるとされる。さらに当村に多い本池姓の祖先は尾高城下本池の住人で、同城の廃絶後当地に移住したものとされる(大篠津村史)。弓浜半島中央部では他地区に比べ湧水に恵まれて開発が早く、最も古い集落とみられ、「伯耆志」には古墳の存在も記される。拝領高二六石余、本免三ツ五分で畑地の多い弓ヶ浜部農村としては高率であった。南方に続く和田・富益・夜見の各村はいずれも当村枝郷とされていた。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三六五石余、竈数三一八、「伯耆志」の家数二七八・人数一千一五〇。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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