日本歴史地名大系 「大間番所跡」の解説
大間番所跡
おおまばんしよあと
大間町の海岸寄り地先に、慶長一一年(一六〇六)に建てられた。「佐渡年代記」同年条に「土蔵二軒を立て、他国より積来る米を納め」とある。「佐渡相川志」には「越後間瀬ヨリ米船毎日数十艘入津ス。一艘ニ百弐拾俵積ム」とあり、おもに米を陸揚げした港であった。古くは十分一役場とも称した。繁栄時の問屋旧勤(佐渡相川志)によれば、番所差配の問屋商人の生国は越後三、近江・京・甲州・富山・伊勢各一で、鉱山町の米の流通手段が、島外商人に握られていたことがわかる。入役高を記載した元和八年(一六二二)の諸番所御役并諸役納覚(佐渡風土記)によると、二五五貫一七九匁四分とあり、佐渡全島一一番所の筆頭で、全島入役の四三・九パーセントを占める。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報